村山内閣発足(1994年)

平成6年(1994)、自社さきがけによる連立政権が発足した。自民党は政権に復帰するため、民意を問うことなく、沈没寸前にあった社会党の党首・村山富一を首相に担ぎ出してしまった
細川、羽田内閣で野党に転落した自民党は、それまで長い間、与党だっただけに野党になったことがいかに不自由かが身にしみてわかった。そこでどんなことがあっても政権に復帰しなければならないと考えた。そのためには、社会党を抱き込む必要があったのだった。そして社会党を抱き込むためには、何と社会党から首相を出してもよいというところまで行ってしまった。これは国賊以外の何物でもない。
社会党にも妥協させた。社会党のスローガンとなっていた「日米安保反対」「国旗掲揚、国歌斉唱に反対」「自衛隊は違憲」の旗を降ろさせた。経済政策などでは、社会党が手本と仰いできたソ連が崩壊していた。恥ずかしくて社会主義政策など口にできないありさまだった。
その時、社会党が初めから唱えていたことでたった一つ残ったのが、「日本を朝鮮と支那に謝らせる」ということだった。
その社会党の唯一のアイデンティティー、つまり東京裁判の検事側の論告を丸飲みにするという「お詫び政策」を自民党は了承し、盛り上げた。このときの自民党の”戦犯”は総裁の河野洋平、幹事長の森嘉朗、そして政調会長の加藤紘一だ。これによって自民党は再び、社会党の下で与党に返り咲いた。政権利益のために、国家百年の刑を誤った凶悪な輩どもである。

社会主義政党である社会党の村山富一が首相になると、謝罪外交は最高潮に達した。

この村山が翌年、悪名高き「村山談話」という噴飯ものの談話を発表する。

  「戦後五十年国会決議」
  「村山談話」

参考文献:WiLL 増刊 田母神俊雄全一巻(渡部昇一著)


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参考文献 歴史年表