辛亥革命(1911年)

日露戦争のあと、日本と清国の関係は良好だった。
ロシアに奪われてしまっていた満州を日露戦争で日本が清朝に取り返してやったために清国は日本に友好的になっていたのだ
清朝は支那で十数世紀も続いた科挙を廃止し、日本に留学することによって高級官僚になれる資格とした。このため、優秀な支那人が数万人も日本に留学した。その中に孫文らがいた。孫文は、日本の近代化を見て、自分たち(支那人、漢民族)も清国から独立したいと考えた。孫文が唱えた「滅満興漢」というスローガンは、「満州を滅ぼして漢(支那)を興す」という意味で、孫文の革命運動というのは本質的には独立運動である。

1911年(明治44)、武昌で革命軍が挙兵し辛亥革命が起こった。孫文はアメリカから帰国した。つまり、孫文は革命が勃発したとき現場にはいなかったのだ。
孫文は、翌年1912年(明治45)1月1日、南京で中華民国の建国を宣言し、臨時大総統に就任した。

  中華民国

「この辛亥革命がもとで清朝が滅び、それに替わって中華民国が建国され、それが昭和24年(1949)の中華人民共和国に替わった」と超簡略に言うとそうなるのだろうが、実際の中華民国の歴史は複雑極まりないものであった。下記に詳しく説明した。

  中華民国の歴史(1911年から国共合作[1924年]まで)

辛亥革命に参加した志士の多くは日本に留学しており、これに多くの日本人が協力した。このため「支那革命は東京発」と言われた。
日本人は支那が近代国家として安定することを願っていたが、それは無理だった。

辛亥革命の年表

1905年 清は立憲君主制を導入、近代改革に着手するもすでに手遅れだった。
反清革命三派、東京で「中国革命同盟会」を結成。これが南方革命派の源となる。
1911年 不昌で革命軍が挙兵し、辛亥革命が起こる。革命軍の主力は日本で軍事教育を受けた約1000人の清国留学生だった。
孫文はアメリカから帰国する。つまり、孫文は革命勃発時、アメリカにいて支那にいなかった。
1912年 1月 孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府(南京)成立。
2月 清朝皇帝(宣統帝溥儀)の退位で清朝は消滅する。

ブラウザの「戻る」ボタンで戻ってください
参考文献 歴史年表