オランダ、東インド会社設立
(インドネシア植民地支配の開始)

16世紀後半に過酷な弾圧政治を行なうスペインから独立を達成しつつあったオランダは、北海のほとりの寒村にすぎない小国だった。最初は北極海を回ってアジアに出る航路を模索していたが、それが不可能とわかるとスペインとポルトガルの開発した道を通って大西洋・太平洋世界に割り込んでいった。
オランダはまず北米大陸進出を試みるが、既存勢力のイギリス、フランスにやられて阻まれた。そこでオランダはインド洋航路開発に全力を向けることになった。そして、1602年、インドネシアのジャワに東インド会社を設立した。オランダはそこに貿易、軍事、外交、行政の独立件を与え、諸外国と戦争して積極的にアジアへ進出を開始した。
オランダはタダ同然で安く手に入れた香料をジャワ島やモルッカ諸島からアムステルダムに運び、莫大な利益をあげた。
オランダは、アフリカ及びインド洋の沿岸地域にあったポルトガルの貿易拠点を次々に奪い取り、17世紀中ごろには、現在のインドネシアを中心とした地域に確固たる拠点を築いた。これ以降、330年もの長期にわたって、オランダのインドネシア植民地支配が続く

オランダの統治方法はまったくひどいものだった。原住民には教育を行なず、読み書きができないように放置するという愚民政策をとった。これはポルトガルなどもやったやり方である。
徹底した分断政策はオランダ支配の特徴で、集会や団体行動を禁止した。320の各部族語を一つの標準語に統一することを許さず、インドネシア人としての民族意識を奪い、原住民はプランテーションの奴隷としてこき使われた。
オランダは支配したインドネシアの土地で稲作を営む住民にコーヒー、サトウキビ、藍、茶、肉桂などを強制的に栽培させた。その結果、食糧を自給できなくなった住民に、オランダは食料を高く売りつけることで借金を負わせ、なけなしの財産・土地まで巻き上げていった。
その搾取の仕方は19世紀に入ってからますます巧妙となり、インドネシアからの収益は実にオランダの国家予算の三分の一を占めるようになった。
このオランダの「強制栽培制度」によって、インドネシアは大飢饉となり、人口の9割が餓死したといわれる
巧妙だったのは自分たちは表にたたず間接統治を行ったことである。統治は地元の代表である土候に、流通は華僑(現地の支那人)にやらせた。搾取によるインドネシア人の憎悪は華僑や土候に向けさせ、自分達はおいしい汁だけをたっぷりと吸ったわけだ。しかも表向きは東インド会社という会社組織で、国家は前面に出ないという用心深さだった。
また、オランダは混血政策を取り、インドネシア人との混血児を中間階級にし、民族の分断を図った。これはポルトガルが東ティモールで、スペインが中南米でやったのと同じ手口である。混血児といっても白人の女が現地の男と結婚して子供を生むなどということは一切なく、白人の男が現地の女を強姦するというパターンだけだった。
この政策の裏には白人の傲慢と人種差別があったのは言うまでもない。劣等民族であるお前らに、我々が種を授けてやる、という思い上がりだった。こうしたハーフカースト(白人とアジア人の混血児)は、教育を施され、宗主国のために原住民を監督、酷使する役割を与えられた。

インドネシア人はオランダ人に家畜よりひどい存在として扱われていた。スマトラのたばこ農場の様子を記録した「レムレフ報告書」には現地人を米国の黒人奴隷と同じように扱い、「鞭打ち、平手打ちは当たり前だった」と記録されている。ある農場では「粗相をした二人の女性を裸にして、オランダ人農場主がベルトで鞭打ち、さらに裂けた傷口や局部に唐辛子粉をすりこんで木の杭に縛りつけて見せしめにした」という。また、刑務所で過酷な労役を課せられている因人が、オランダ人の農場より食べ物がいいからと出所を拒んだといった例も伝えられている。

このオランダによる恐るべき搾取にピリオドを打ったのは1941年の大東亜戦争である。

  大東亜戦争


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参考文献 歴史年表