大東亜戦争

真珠湾攻撃直後の昭和16年(1941)12月12日の閣議で、日本政府は支那事変を含む12月8日からの戦争を「大東亜戦争」と命名した。「支那事変を含む」とは、支那事変までさかのぼって含めるのではなく、12月8日以後の支那での戦争を含めるという意味である。なぜ「大東亜戦争」という名称が用いられていたかというと、これは国際経済のブロック化ABCD包囲陣によって、日本の存続が危機にさらされていたことに由来する。

  真珠湾攻撃
  ブロック経済化
  ABCD包囲陣

また戦争目的が「大東亜新秩序建設」にあると発表した。これはアジアの国々が団結して、繁栄しようという考え方である。当時、欧米はアジア侵略の野望に燃え、英米を中心に侵略の機会を狙っていた。欧米の侵略からアジアを守るために、「鬼畜米英」をかかげ、民族の命運を賭けて戦う、これが大東亜戦争の名目であった。
アジアの国々が欧米諸国の支配から脱し、それぞれが独立国として手をたずさえ、繁栄していこうという大東亜共栄圏の発想そのものは、否定される筋合いのものではない。
東南アジアにおいて、日本はその地を「侵略」したわけではなく、白人に支配されている状況から解放しようとした。その意味では、白人支配からの解放戦争でもあった。
実際に、戦時中に独立まで達成できたのはフィリピンとビルマ(ミャンマー)だけであったが、その他の地域についても、民族自決の国家を作ろうとしたのは明確なことである。もとより軍事力を用いた解放であったが、当時、東南アジアの植民地を解放しようと思えば、それ以外に方法はなかったのである。

ちなみに、12月9日には、蒋介石国民政府が日本に向かって宣戦布告したので、支那事変が国際法上の正式の戦争となったのは昭和16年12月9日になる。

同じような意味で「太平洋戦争」という名称があるが、意味はまったく異なるといっていい。

  太平洋戦争

戦後、占領軍指令(神道指令)により「大東亜戦争」という名称の使用は禁止され、「太平洋戦争」と呼ぶことを強要された

  神道指令

しかし、日本にしてみれば100万以上の大軍が支那大陸に、あるいはビルマに戦っていたのであり、太平洋戦争という名称はふさわしくない

「大東亜」とは地理的概念である。だいたい、西の方の限界はバイカル湖以東、南方のビルマ以東のアジア大陸及びそれに付随する諸島(インドネシアやフィリピンを含む)、太平洋方面では日本の委任統治領であった内南洋のマーシャル群島以西、つまり東経180度以西の西太平洋である。これが「大東亜戦争」という命名が行なわれたときの日本が考えていた作戦領域だった。

GHQのスミス企画課長が執筆した「太平洋戦争史」が全国紙に掲載され、以来教科書にも「太平洋戦争」と表記されるようになった。

  日本を大東亜戦争に突入させた原因

門戸開放主義を理念とする米国極東政策と、満蒙(満州・モンゴル)との特殊関係を重視する日本の大陸政策との対立こそが日米抗争50年の歴史の根底であった。後年、共産主義によるアジア赤化が日本の対外対応をさらに複雑困難にした。

  東南アジア解放

この大東亜戦争を契機に、一斉にアジアで民族自決運動・独立運動が起こり、多くの国が戦後、次々と欧米列強の支配から逃れた

ビルマ(現ミャンマー)は大東亜戦争の初期に日本がイギリスの支配から解放した後に、日本の手によって昭和18年(1943)8月1日に独立を果たした。日本がビルマ国民軍を創設し、訓練したことが独立につながっている。

インド独立のきっかけも大東亜戦争にあった。イギリスの署名な歴史家であるエリックーホプスバウ・ロンドン大学教授は、二十世紀を回顧した近著『過激な世紀』の中で、「インドの独立はガンジー、ネルーが率いた国民会議による独立運動ではなく、日本軍とチャンドラ・ボース率いるインド国民軍(INA)が協同してインドへ進攻したインパール作戦によってもたらされた」と述べている。インド国民軍は、「F機関」として知られた日本軍の藤原機関が育成したインド解放軍である。インパール作戦では惨惜たる結果に終わったが、インド国民軍の将兵たちは「チャロ・デリ−」(デリーヘ)を合い言葉に善戦、彼らのインドをわが手に取り戻すという目的は達成された。1997年8月インド独立50周年の式典の挨拶に立ったラビ・レイ元下院議長は、「このよき日を祝うにあたって、1905年を忘れることはできない。日本が日露戦争に勝ったことによって、インド国民が勇気づけられて独立運動に立ち上がった」と述べ、独立運動の闘士として知られ、インド法曹界の重鎮でもあるレイキ博士もインパール作戦にふれ、「太陽が空を輝かし、月光が天地を潤し、満天に星がまたたく限り、インド国民は日本の恩義を忘れない」と日本への感謝の意を表している。

戦時中、インパール作戦を戦ったインド国民軍の戦友会(INA委員会)も日本に感謝を示すために、平成9年(1997)、靖国神社に感謝状を奉納し、こう述べた。「インドが日本のおかげをこうむっていることは、言語に尽くせない大きなものがあります。偉大な貴国はインドを解放するにあたって、可能な限りの軍事援助を提供しました。何十万人にものぼる日本軍将兵が、インド国民軍の戦友としてともに血と洋と涙を流してくれました。インド国民軍は日本帝国陸軍がインドの大義のために払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。インドの独立は日本帝国陸軍によってもたらされました。ここに日印両国のきずながいっそう強められることを祈念します

  開戦から降伏文書調印までの詳細年表

明治維新の目的には欧米列強のアジア侵略を阻止してアジア近隣諸国との同盟関係を創出し、そして有色人種の地位を向上させたいという遠大な目的も含まれていた。
このアジア解放という問題に関しては、近隣諸国との同盟関係の構築が非常に困難だった。近隣諸国がなかなか同調してくれなかったためである。結果的には孤軍奮闘の末に白人帝国主義連合とその支援にすがった支那(国民政府と共産党政府)に叩きのめされる惨劇に終わった。
19世紀、20世紀の厳しい国際情勢において、支那(清国)や朝鮮は皇帝や王の独裁体制だった。挑戦は結局、王朝内部の権力争い、国民を顧みない権力闘争が続く中で日本に併合され(韓国併合)、支那は辛亥革命で近代国家形成へ一歩踏み出したが、国内は不安定を極め、軍閥が跳梁跋扈して近代国民国家形成や近代化推進に関する意欲と能力は著しく欠いていた。それゆえに朝鮮と支那の悲惨な境遇はみずから招き寄せたという面が多大にあった。そこで日本はひとりアジア解放の重荷を背負わされ、大東亜戦争で援軍もなく自滅した。
大敗北を喫したとて、われらが日本の歴史を貶める必要は全くない。むしろ大いに誇ってしかるべき日本民族の偉業である。それが明治維新以降、大東亜戦争敗北までの経路である。われわれはこの先祖の偉業を誇りとして民族の記憶の奥底に深く長く留めておくべきである

日本が負けた後、連合国は一体東南アジアに対して何をやったか。イギリスもオランダもフランスも、日本が解放した地域を、軍事力を用いて再び植民地にしようとした。白人たちが東南アジアを利権の対象としか見ていなかったことは、この一事からも明確である。
だが、白人たちの支配は長くは続かなかった。東南アジアに進出した日本は、現地の独立運動を支援した。そのときの民族主義者たちが、再び戻ってきた白人たちに対して頑強な抵抗を示したからである。一度独立を経験した人たちが、もう二度と昔の姿には戻りたくはないと思うのは当たり前の話である。
そうして東南アジア諸国は続々と独立を実現し、植民地は全く消えうせた。日本の念願がついにかなったのである。

  大東亜戦争・東京裁判に関する発言


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参考文献 歴史年表