ロシアの東方進出、侵略の先端が日本の北辺に迫り、1792年、ロシアの使節ラクスマンが根室に来航し、通商を求めてきた。続いてレザノフが長崎に来て通商を求めた(1804年)が、幕府は交渉に応じなかった。その頃からロシア軍艦は蝦夷地(北海道)に侵入して略奪、暴行を働く一方、密かに探検、測量をしてゴローニン事件(1818年)などを起こしている。 ペリー来航の1ヶ月後、ロシアの使節プチャーチンも4隻の軍艦を率いて長崎に来航し、北辺の国境画定と通商開始を要求したが、幕府はその要求を一応拒否した。 ロシアの南下が日本の北辺に及ぼす脅威を痛感した仙台藩士の林子平は「海国兵談」を著し、海防の急務を説いた。幕府も探検隊を派遣して北辺調査を行い、伊能忠敬に蝦夷地を測量させた。さらに松前奉行において蝦夷地を幕府直轄領とした。1808年、間宮林蔵は、樺太から沿海州までを探検し、間宮海峡を発見している。 このように幕末の日本は北からのロシアの脅威に深刻な危機を感じ、警戒を怠らなかった。 一方、ロシアは清国から沿海州を奪取して、朝鮮半島、日本へと迫ってくる。 ロシア、沿海州奪取 |
参考文献 | 歴史年表 |