1613年にロマノフ朝が始まったロシアは、17世紀末のピョートル1世の時代に、軍事力を強化、周辺地域の侵略に着手した。 当時、ロシアにとっての最大の悩みは南はトルコ、西北部は北欧諸国にふさがれ、1年中使える港がなく、海への出口が封じられていることだった。西欧諸国に追いつくには不凍港の確保が必要で、この目的を果たすために「南下政策」が伝統的国家目標になった。 18世紀に入るとロシアは狂ったように周辺地域を侵略・併呑していった。スウェーデン、ポーランドを破り、バルト海の覇権を握り、南方ではトルコと絶え間ない抗争を続ける。 また、東方のシベリアへの侵略も行ない、ロシアの版図はやがて太平洋までたどり着き、ベーリング海峡を渡り、アラスカも領土に組み入れた(アラスカは後にアメリカに売却する)。 当時支那大陸を支配していたのは清国である。ロシアは清国と1689年にネルチンスク条約を結び国境と定めた。これは清国とヨーロッパの国との間に結ばれた初めての条約で、清国とロシアの間の国境を外興安嶺(がいこうあんれい)の線に定めた。 この後、ロシアはアジアの領土を奪い続けることになる。アヘン戦争やアロー戦争で清国が敗北すると、その弱みに付けこみ、黒竜江(アムール川)以北を割譲させた(アイグン条約、1858年)。 アヘン戦争(1940〜1942年) アロー戦争(1958年) 黒竜江(アムール川)以北割譲 その2年後の1860年には、北京条約を結んでウスリー川以東の沿海州を割譲させる。 北京条約 沿海州割譲 これによって日本への脅威が非常に増した。 その以前の1792年には、ロシアのラクスマンが根室に来て通商を請うが、幕府はこれを拒否している。 ラクスマン、根室に来航 |
参考文献 | 歴史年表 |