太平天国の乱(1850〜64)

1850年から14年間に渡って南支那で繰り広げられたこの乱は世界史上最大規模の内戦である。
死亡者数は推定で5000万人、支那全人口の5分の1とも言われる。
太平天国軍は従来の農民反乱と違い、新興宗教団体だった。キリスト教プロテスタント系と道教的な土俗信仰が結合したカルト集団である。教祖の洪秀全(こうしゅうぜん)は科挙試験に4回落ちた読書人(知識階層)だった。失意のうちに広東に帰郷し、病中に見た幻覚を”天からの啓示”と受け取って拝上帝会を作ったという。自分をキリストの弟と称して、天父=神の意向を伝えるという形で信仰を広げた。
1850年、広西省で蜂起した洪秀全は、みずから「天王」に即位して、”太平天国”の樹立を目指した。
1853年に南京を占領、「天京」と改めて都とし、みごと”天国”を樹立した。その兵力は百万とも号された。これはまた北京の満州人王朝に対抗する支那人(漢人)政権=興漢でもあった。その後、精鋭を集めて北伐軍を作り、黄河を渡って天津付近まで迫ったが、1855年、北伐軍は各個撃破され敗退、太平天国自体も守勢に向かうことになった。
なお、太平天国は内部分裂を重ね、揚子江以南を支配していたが清朝の征伐軍に敗れ、1864年、洪秀全は毒を仰いで自殺、南京も陥落した。
太平天国の乱に際しては、各地の会党、教党、匪団も蜂起した

支那の内乱

ブラウザの「戻る」ボタンで戻ってください
参考文献 歴史年表