対馬事件

1860年に、イギリス・フランスとのトラブルにつけ込んで清国からウスリー川以東の沿海州を割譲させたロシアはウラジオストックに念願の不凍港の軍港を建設し始めた。

  北京条約
  ロシア、沿海州奪取

ロシアの次の侵略目標は満州と朝鮮であり、日本への脅威は現実のものとなった。
陸伝いに領土を拡張し続けるロシアの姿を見たとき、日本人がただちに気づいたのは、朝鮮半島の重要さだった。もしロシアが南下し、朝鮮を植民地とすれば、日本にとって危険極まりない。ロシアは、日本本土と朝鮮の間にある対馬壱岐を占領し、島伝いに日本へやってくるであろう。かつて元寇のとき、蒙古はこのコースで日本へ攻めてきた。
案の定、ロシアは対馬にやってきた。
1861(文久1)年、ロシア軍艦のポサドニック号が船体修理を理由に対馬に入港した。そして永住施設を建設しはじめたのだ。幕府はこの対応に苦慮したが、艦長と交渉するとともにイギリスに折衝を依頼した。7月になるとイギリスは2隻の軍艦を派遣しロシアの退去を迫ったため、8月にポサドニック号は退去した。
日本はなんとかロシアの侵略の第一歩を未然に防ぐことに成功した。

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参考文献 歴史年表