満洲

現在、中華人民共和国(支那共産党)は満洲を「東北」と呼ぶが、中華民国時代は「東三省」、それ以前は「関外」と呼ばれていた。「関外」とは、万里の長城の東端の外という意味である。支那人(漢民族)にとって万里の長城より北は歴史的に異民族の土地であった

大東亜戦争以前に支那が満洲の領土になったことはあるが、満洲が支那の領土になったことはない。このことは以下の歴史を見れば明らかである。

辛亥革命とは、被征服民族の漢民族(支那人)が征服民族の満洲人の王朝(清朝)を倒す運動であった。これによって支那を治めていた清朝皇帝が北京で退位したとしても、単に支那という地域の統治を放棄しただけであり、決して満洲が支那になったわけではない。
かつて13世紀にモンゴル帝国が支那を支配して元朝となったが、その元朝が14世紀に滅びてモンゴル族が故地の蒙古へ帰ったように、満洲族が故地の満洲へ帰るのはおかしなことではない。しかも、清朝は他の民族が満洲に入らない政策(封禁政策)をとっていて、支那と満洲を別の地域として扱っていたから、この点からも蒙古と同じように考えて差し支えない。
今の支那共産党政府(中華人民共和国)が満洲までも自分の国と言い張るのは、イギリス人を追い払ったインド人がイギリスはインドだ、というのと同じ論理である。同じようにチベットやウイグルまでも自分の国だと主張するのは、インド人がオーストラリアやニュージーランドもインドだというのと同じでナンセンスなことなのである。

日露戦争前には、清国は満洲がロシア領にされてしまったと認識していた。満洲のとある地域に役人を派遣する際、ロシアの許可をもらっているのである。
日露戦争においては清国は完全中立のはずだった。日本はロシアを追い払ったのち、鉄道と遼東半島の租借という少しばかりの報酬で手を打って、満洲全体を清国に返してあげた(ポーツマス条約)。ところが実は、清国とロシアは密約を結び、日本と戦うというような話までしていたのである(露清密約)。そのことを知っていれば日露戦争は清国との戦争でもあり、勝った時点で日本が満洲を取っても文句は出なかった。清国とロシアの密約が判明したのは大正10年(1921)になってからであり、非常に残念なことだった。

満洲と支那の違いが分かっていない人がやたらと多い。このため、「満洲も支那だ」という支那のプロパガンダ(宣伝)に乗せられて、日本が侵略したような印象になっている
外国人の多くはまだ満洲王朝の清国(清朝)を支那人の王朝だと勘違いしている。満洲族は満洲語を持っている。清朝は満洲に他の民族が入るのを嫌がって封禁政策を取ったし、東三省(満洲)の将軍には満洲人を任命し、支那人を使わなかったのである。

辛亥革命で標語と成った「滅満興漢」とは、清朝による漢民族(支那人)支配を廃することを意味した。つまり支那人が支那人の国を作るということである。そうであれば、蒙古、ウイグル、チベットといった民族もそれぞれ自分達の国を作るのは道理であり、満洲民族もまた同じである。
ところが、孫文は臨時大総統になると、蒙古、ウイグル、チベットが清朝の支配から独立するのを認めなかった。蒙古、ウイグル、チベット、満洲が支那の領土ということは歴史的にまったく根拠がない。それを強引に自分の領土としてしまっているのが現在の支那(中華人民共和国)である。

大東亜戦争後、満洲が支那の手に入ると、支那は満洲人をなくす運動を進めた満洲人を大量に蒙古やウイグルに移動させた。このため現在では満洲語を話せる人も満洲人と称する人もほとんどいなくなってしまっている。その結果、満洲独立を唱える声はほとんど絶えてしまった状況である。

万里の長城の外の「満洲」の地にはツングース語系の満洲族が住んでいて、古来、支那人は彼らを「化外の地」の民と呼んでいた。17世紀に彼らは天下を取り、清王朝を樹立させた。
清は周辺地域への侵略を繰り返し、領土を従来の3倍にまで膨張させ、他民族を蹂躙し、圧政を敷いた。支那にいた支那人もその支配下に入ったのである。

「満洲」はもともとは清朝をつくっていた満洲族の出身地だった。
満洲族が清朝を樹立した際、満洲族は民族を挙げて万里の長城の内側に移住し、満洲の地は万一の際に帰れるように無人地帯にされていた。

支那の革命家にしても、当初は満洲を支那の領土であるとは考えていなかった。革命派のナショナリズムはもともと、異民族である満洲人の支那人支配への憤りに発した漢民族主義である。彼らにとって万里の長城以北の満洲など、たんなる「満奴」や「韃奴」の地であって、せいぜい革命後における満洲人の放逐先であり、むしろそこに日本の勢力が進出してくれば、支那はますます安泰になると考えていたのだった。
だから、孫文などは革命の際、満洲を支那の一部とはまったく考えておらず、日本に満洲売却交渉まで持ちかけていた。自分達の土地ではなく異民族(満洲族)の土地であるから外国にくれてやってもかまわなかったのだ。桂首相に対しては、革命後に満洲を日本と支那の共同で開発しようといった提案まで行っていた。
だが革命がなって中華民国が成立すると、この国は清国の版図をすべて継承したいがため、新たな民族概念を創出した。つまり、漢人だけでなく、満洲人、チベット人、モンゴル人をも包含する「中華民族」というものであり、漢人だけでなく中華民族の土地はすべて支那の土地だと主張するにいたった。

今日の支那(中華人民共和国)では満洲という言葉は禁句としている。その代わりに、自己中心主義的な、包囲しか示さない「東北」という呼称の使用を、日本人にまで強要している。もちろん日本人はそんなことに付き合う必要はまったくない。支那は満蒙(満洲と蒙古)の地は、支那の神聖不可分の固有の領土と勝手に決めつけ、高句麗史まで支那の一地方史と主張してはばからない。

清朝が支那を支配すると、満洲族が大挙して支那(万里の長城以南)に移住した。そして満洲は荒れ果てた地になっていた。
そこを日本が、ロシアの南進を阻止するために日露戦争を戦い、インフラを整備し、近代産業を移植し、治安を維持し、支那の内乱が及ばない別天地にしたのである。そこで大量の支那人(漢民族)が内乱に明け暮れる支那から、安定した満洲へ流入してきた。満洲の人口は日露戦争の頃(1904年)には1000万人、辛亥革命(1911年)の頃には1800万人、満洲事変の頃には3000万人と激増した。

清朝崩壊の結果、支那の治安は乱れ、今度は日本を追い出せという運動が始まった。日本製品の不買運動、日本人に土地を売るな、貸すな、日本人の家の使用人になるなという運動にまで広がり、満洲に居住する日本人の生命が危ぶまれる状態となった。
辛亥革命が起こったところで溥儀が満洲族を率いてすぐに満洲の地に引き揚げていれば、その後の満洲独立の必要もなく、そのまま安穏に暮らせていた。ところが、清朝は袁世凱に革命軍(国民党軍)の討伐を命ずるなどしてぐずぐずと抵抗を続け、機を逸した。しかも、その袁世凱は清朝を裏切り、中華民国政府と交渉して孫文に代わって自分が大総統に就任するなどしたため事態はますます混乱した。支那全土に軍閥が乱立し、支那は内乱状態に陥り、満洲でも張作霖などの軍閥が台頭してきた。

張作霖は奉天(現在の瀋陽)を中心に勢力を伸ばし、一時は北京を占領し自らが中華民国の主権者であると宣言するほどであった。しかし、結局は蒋介石の軍隊との戦いに敗れ、1928年6月4日、列車で奉天に戻る途中、何者かに爆殺される(張作霖爆殺事件。以前は関東軍の河本大作大佐の指揮によるものとされていたが、最近ではこれを行なったのはコミンテルンという有力な意見が出されている)。

そうして状況の中、1931年9月18日に満洲事変が起こることになる。

今日の支那では「満洲」という言葉は「支那」と同様禁句で、「東三省」または「東北地区」と言い換えている。だが共産党満洲委員会が存在したように、かつては禁句ではなかった。だから今日でも支那では「満洲事変」という言葉もなく、「九・一八事変」と呼ぶ。これは事変勃発が9月18日だったためである。現在「九・一八」は抗日戦争の記念日に指定されている。

満洲の歴史

10〜12世紀 五代十国〜宋の時代、満洲には契丹族が「遼」を建国。
12世紀 ツングース系女真族が「金」を建国し、遼を西方に追い、宋を南に追いやった。遼は西方で「西遼」を建国し、宋は南に移り「南宋」となった。
13世紀 モンゴルが支那に「」を建国すると満洲もその一部になった。つまり、蒙古族が支那と満洲を支配したのである。
14世紀 「元」は支那人の王朝「」に滅ぼされたが、明は満洲にいた女真族を支配できなかった。
1616年 ヌルハチという満洲族の首長が現在の東満洲地区を征服して「」という名の王朝を建てた。ここから満洲の歴史が始まる。歴史上「金」という王朝は何度も出るので、ヌルハチの金は「後金」と称している。
1636年 ヌルハチの息子のホンタイジは、朝鮮を征服した後、国号を「清(清国、清朝)」と称する。女真の民族名を「満洲」に改めた。
1644年 太宗の息子の「世宗」のとき、清は万里の長城を越えて北京を占領し、「明」に代わって支那も支配するようになる。
清国(清朝)の歴史はこちら

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参考文献 歴史年表