三国干渉の影響が朝鮮に及んだ。 三国干渉(1995年) 日本が遼東半島を返還したのを見て朝鮮では、「日本は清国に勝ったが、白人には屈した。やはり白人のほうが強い」と考える人間がたくさん出てきた。かつては支那についてきたが、今度はロシアにつこうというわけだ(朝鮮伝統の事大主義)。 この侮日親露の人と親日の人が分かれ、争うようになった。 そこでロシアが付け入り、ウェーバー駐韓ロシア公使は三国干渉で親日派が動揺している脇で国王の妃である閔妃(びんひ)に近づいた。そして閔妃は国政に口を出し、侮日親露派の勢力を拡大させた。 この時期、日本は早く朝鮮を独立させる方針で、内政に口を出さなかった。その日本の態度を侮日親露派は日本がロシアを怖がっているからと考えた(相手が譲歩したら弱みがあると思うのは朝鮮人の国民性で、今とまったく変わらない。彼らに譲歩するのは無駄なことである)。 親露派と親日派の争いの中では多くの日本人が惨殺された。親日勢力は朝鮮の独立と近代化を阻止する親露派の閔妃を排除することを決意し、日本の有志と組んで閔妃を殺害した(「乙未の変」という)。今から考えれば無謀な話だが、日本の公使館が何度も攻め込まれ、日本人が殺されていたから、当時の挑戦は大変混乱した時代だった。 日本は国際的な評価を意識して公使を含めてこの事件の関係者を裁判にかけた。機敏な措置により閔妃事件は重大な国際問題に発展しなかった。 一方、朝鮮では参加した朝鮮人のうち3名が死刑になった。 この後、韓国では親日派の内閣ができ、改革を進めようとしたが、韓国国王は王室からロシア公使館に移されてしまった。 露館播遷(1896年) |
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