台湾は日清戦争後の下関条約(明治28年[1895])により日本に割譲された(割譲されたといっても台湾が支那大陸の政権の支配下にあったことは、これまで一度もない)。三国干渉で遼東半島を返還させられたが台湾は下関条約どおりに日本のものとなった。
ここで日本は素晴らしい統治をした。台湾の発展には、日本は国家として尽力したばかりでなく、多くの個人が情熱を傾けて尽くし、そのため地元の人々に慕われ、親日家が大勢いる。
同じ時期、アジアの多くの国は西欧列強に植民地にされていたが、彼らの統治方法は「原住民から搾取し、本国を富ます」という非道極まりないものだった。
西欧の植民地支配
台湾に日本は積極的な投資を行い、インフラを整備し、教育を施した。産業を興し、経済的発展への道を開いた。戦後、台湾がいち早く繁栄したのは日本がインフラを整備していたからであった。
統治開始当初は、一部の台湾住民の反発・抵抗があったが明治35年(1902)になると治安は回復した。
具体的に日本が台湾統治で行なったことは以下の通り。
- 割譲3年目には日本の国家予算の4分の1以上の台湾開拓・整備予算が計上された
- 台湾は無法地帯だったが、法ができ、税金が安くなり、治安が回復した
- 台湾はマラリア・ペストなどの風土病が蔓延する土地だったが、下水道施設、衛生環境の改善、医療の充実によりペストは根絶し、マラリアは半減した。
- 新渡戸稲造(武士道の著者)が糖業育成に尽力し、一大産業に発展させた。
- 八田與一の多大なる貢献により、「嘉南大シュウ」という嘉南平野の大灌漑設備を完成させ、米の二毛作を普及させた。
- 台湾の気候に合った蓬莱米(ほうらいまい)を開発し、米の生産量を4倍にした。
- 港湾・道路をつくり、交通網を整備した。
- 明石元二郎第7代総督は、電力事業に尽力し、工業化の誘引となった。
- 台湾銀行を設立し、通貨・金融制度を整備した。
- 50年間の台湾統治で就学率は92%に達した。(インドネシアを400年統治したインドネシアの就学率は3%)
こういった日本の多大な功績があるにもかかわらず、戦後の反日歴史観では、台湾の島民の反対を武力で鎮圧した、などという説明だけで片付けれらている。一部の反発があったとしても、その部分だけ語られるのは歪曲といえよう。 |