日露戦争(1904〜1905年)

北清事変が終わってもロシアは満州に出兵した軍を居座らせ、満州はロシア領になったも同然の状態となってしまった清国はすでに満州はロシアに奪われたものとしてあきらめ、もう何もしなかった。
ロシアは、韓国政府が親露派に転じたことに乗じて南下政策を一気に推し進め、韓国に対する支配力を強めていた
日本にとっての最大の懸案はロシアの軍事拠点の拡大であった。

  龍岩浦軍港化(1903年)

この脅威を取り除くべく、日本は明治36年(1903)8月からロシアと交渉を続け、必死に抗議を重ねるが無視される。

  対露交渉(1904年)

日本は最後まで戦争を避けたかったが、ロシアは満州の兵力を増強し、朝鮮(大韓民国)のに要塞を築くなどして軍事拠点を拡大し続けた。このまま黙視すればロシアの極東における軍事力は日本が太刀打ちできないものとなることは明白となり、日本政府はロシアと戦うことを覚悟せざるを得なくなる
日露戦争は日本にとっての祖国防衛戦争だったのだ。

最終提案を出したあと、回答を三週間待ったところに、最後の最後まで戦争を避けたかった日本の意思がうかがえる。
明治37年(1904)2月4日、日本は開戦を決定し、2日後の6日にロシアに国交断絶を伝えた。この日、東郷平八郎率いる連合艦隊は佐世保を出港して、2月9日に旅順港郊外でロシア太平洋艦隊を攻撃、仁川沖では瓜生戦隊がロシアの軍艦ワリヤークとコレーツの2そうを撃沈した。そして、2月10日に「宣戦の詔勅」が渙発された。

「露国に対する宣戦の詔勅」 (外部リンク)

これに対してロシアは宣戦布告をせずに戦争をしたと日本を非難した。小村寿太郎外相は、これに対して以下の反論を行った。
「外交関係を断絶し、独立の行動を取る」ということは開戦を含むすべての行動を日本が行うことであり、国交断絶は宣戦布告をも含む。宣戦布告は敵対行為開始の必要条件でないことは国際法学者の間で一致した見解だ。
いずれも正論である。
ロシアの秘密記録「第39号電訓」で明らかになっているようにロシアも日本と戦争を始める気でいたのだから、ロシアの非難は単なる言いがかりにすぎなかった。

客観的状況からすれば、日本がロシアに勝てる可能性はほとんどなかった。日本政府は開戦を決意するとともに、いかにして戦争を日本に有利に終わらせるかを考えた。そのためには日本が劣勢に転じる前に仲介者を立て、日本に有利な講和条約を結ぶしかない。日本政府はハーバード大学でセオドア・ルーズベルト大統領と同窓だった金子堅太郎をアメリカに送り、アメリカの世論を日本に有利なように導こうとした。

戦場になったのは朝鮮と満州である。日本陸軍は苦戦の末、旅順を占領し、奉天会戦に勝利した。ロシアは劣勢を跳ね返すため、バルト海(ヨーロッパの北の海)からバルチック艦隊を派遣した。この艦隊はアフリカの西を通って南端を迂回し、インド洋を横切って、約7ヶ月かけて日本海へやってきた。日本の連合艦隊は東郷平八郎司令長官の指揮のもと、兵員の高い士気と巧みな戦術でバルチック艦隊を全滅させ、世界の海戦史に残る驚異的な勝利を収めた(日本海海戦)。

  日本海海戦

日英同盟があり、イギリスの協力を得ていたにしても第二次世界大戦でアメリカがイギリスに援助したのとはまったく違う。日本はあの大国ロシアを独力で破ったのだ。

ロシアはルーズベルトの仲介した講和に応じ、明治38年(1905)9月、ポーツマス条約が結ばれた。

  ポーツマス条約

ロシアが義和団事変をきっかけにして、全満州、それから朝鮮にまで兵を進めていて、さらに北支那までロシアの侵略の計画の中に入っていた。このロシアの南下に対して実際に戦うという決意をもっていた国はわが日本以外になかった。アメリカもイギリスも、抗議はしても戦う意思はない。日本が立ち上がったときに初めてバックアップし、好意ある中立を守っただけで、自らは戦う意思はなかった。
日露戦争というのはわが国が立ち上がらなければどこも戦うことがなかった。日本によって初めて挑戦からロシアの勢力は駆逐されたし、南満州からも駆逐されたわけで、清国は自分の手によらずして、日本人の手によってこの満州を取り戻したわけである。
日本の明治維新、富国強兵、近代化がなければアジアはとんでもないことになっていた。富国強兵を行い、軍国日本になったからこそ、日露戦争は戦えたし、それがあったからアジアは救われた。ロシアのあの南下に対していったい誰が防波堤になりえたか。日本以外にはなかったというのは歴然たる事実である。当時、アジアの人々でこれを認識していた人はたくさんいた。というより、当時軍国日本を批判したアジア人は一人としていない。すべてのアジアの指導者は軍国日本を讃え、のみならずこれを羨望したのだ。支那の指導者は蒋介石を含め、ことごとくそうだった。蒋介石が日本に来たのは日露戦争の翌年、軍事を学ぶためだった。日本は不幸にして戦うことになったが、蒋介石は最後まで日本に対する敬愛をの気持ちを失わなかった。
日露戦争はアジアを救うための戦争でもあったし、そして何よりも日本の自衛戦争だった。これを放っておいたら次は日本の番である。完全な自存自衛の戦争であった。
この西力東漸と戦うということが日本の運命だったし、そしてまたその中でアジアの国を救いだすという、それが日本の使命だったわけで、明治日本は、その運命に抗して自分の使命を実に見事に達成した

  日露戦争の世界史的意義
  日露戦争に関する発言など
  アメリカの排日の歴史


日露戦争の国内史的意義

鎌倉時代の元寇以来の国難であったが、日本が勝利することにより、ロシアの南進侵略を抑えることができた。朝鮮半島での日本の優位を確実なものにし、満州に居座っていたロシア軍を撤退させることができた。しかし、満州を清国に返してしまったためにその後の日本は大変な目に合うことになる。

明石元二郎大佐

明石元二郎大佐は、当時の日本政府から今の金にして100億円ともいわれる機密費を与えられ、敵国ロシアの治安かく乱を企てた。明石はその金でヨーロッパ各地に亡命していたロシアの革命家たちに資金援助をした。その結果、日露戦争中のロシアでは国内各地で反政府暴動やストライキが頻発、ロシア政府は戦争に専念できなくなってしまう。戦争中の1905年、サンクトペテルブルクでストに入った労働者たちに皇帝の軍隊が発砲するという事件(血の日曜日事件)が起き、これがロシア革命の引き金になった。もとをただせば明石大佐の活動が遠因になっている。
日露戦争における明石大佐のはたらきは「数個師団に匹敵した」「日露戦争の勝因の一つ」という賛辞が送られた。

一般の意識
一般の常識はどうだったかというと、国債の応募が募集額の3〜4倍以上であった。大東亜戦争のときは、国際の割り当てが隣組に来て、嫌々ながらも引き受けなければならないという感じだったが、日露戦争の頃は金持ちだけでなく中産階級以下も自発的に国債を買い、お金を提供したのだ。
外債は、イギリスで31倍、アメリカで5倍強という人気で、両国が日本の勝利を願っていたことを示す(英米で外債募集をしたのは高橋是清である)。米銀行家ニューヨーク・クーンロエブ商会のジエイコブ・シッフが500万ポンドを引き受けて米国で発行してくれたのはユダヤ人の彼が、ロシアで迫害されているユダヤ人を救い出すために日本の勝利を望んだからである。


報道機関では、ロシアとの戦争に反対してきた「萬朝報」が明治36年の途中から開戦指示に変わった。このとき、あくまでも反戦を唱える内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦の3人が退社した。幸徳らの反戦論は、今から考えれば戦争が嫌だというだけの話だった。

当時の世界の日露戦争史観

当時の世界の国々は、日露戦争はロシアが満州や朝鮮を侵略したことから生じたものであり、この戦争は「独裁国家、専制政治の非文明国ロシア」と、「立憲制度が確立している民主的な文明国日本」との戦いと、正しい見方をしていた。そして、「立てサムライ、汝の刀を欲望の固まりのロシアを叩き潰すまで地に置くな」などの詩が外国の新聞に掲載されていた。また、アルゼンチンの観戦武官で、のちに海軍大臣になったガルシア大将は、「トラファルガーの海戦はヨーロッパをナポレオンの支配から救い、日本海の海戦はアジアをロシアの支配から救った」と書いている。これが当時の世界の日露戦争に対する一般的な史観だった。
この史観は1930年代まで続いた。

日本の歴史教科書
日露戦争の勝利がアジア・アフリカの諸民族を大いに勇気づけた事実は、他国の歴史教科書では当然のこととして取り上げられている。しかし日本の歴史教科書ではほとんど触れられていない。
この理由は、「日露戦争が大東亜戦争の原因となった」とか「日露戦争の勝利のせいで日本人が思い上がってしまい、おかしな国になってしまった」とか「日露戦争以後、軍部が暴走して軍国主義になった」という、日露戦争を「諸悪の根源」と見なしたい反日の連中が大量に教育界に居座っているからである。

与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」という反戦の詩は日本の教科書に必ず載っているが、このような無責任な世迷言よりは日本を守るために満洲、黄海、日本海で戦死した十万の有名無名の将兵について語り継いでゆくべきである。今日の日本、今日の我々があるのは、彼らの忠勇なる将兵の戦いと犠牲のおかげなのだから
ただし、与謝野晶子を単なる反戦詩人と考えてしまうこと自体が実は大間違いである。彼女は海軍大尉として大東亜戦争に出征する自分の息子に、がんばれと励ます立派な歌を詠んでいる。明治43年(1910)に起きた潜水艦沈没事故に際して、佐久間勉艦長と部下たちが最後まで任務を遂行しながら死んでいったことを知ると、与謝野晶子は感激してやはり歌を詠んでいる。

その一方で、世界で高く評価されている明治天皇、東郷元帥、乃木大将らを無視している。

陸軍の苦戦
陸軍の苦戦が意外なところに原因があった。それは脚気(かっけ)であった。
海軍は脚気を防いだ。海軍では軍医がイギリスでは脚気が起こっていないことから、いろいろと研究し、脚気を起こさない方法として食べ物を工夫するという案を導き出した。それを報告しても陸軍は聞かなかった。東大医学部も軍医の森鴎外もドイツ医学の系統で、病気は菌が起こすという考えを持っていた。脚気菌がまだ見つかっていない以上、対策はないと考え、陸軍は兵隊が喜ぶ白米を食べさせ続けた。その結果、日露戦争において、2万7千人程度の兵が脚気で死に、動けなくなった者が19万人近くに上った。20個師団ほどが脚気が失われた計算になる。


下瀬火薬
日露戦争の時に実用化された。特徴は4000度という高熱を出すこと。これに伊集院信管を組み合わせて使うと、少しでも船に触れたら爆発し、4000度の熱で軍艦のペンキにも燃え移る。人が甲板にいることができないため、弾は撃てなくなった。日露戦争における大戦果の一因であった。
下瀬火薬は世界の注目を浴びた。画期的だったのは、イギリスが日本海軍の勝因を詳細に研究し、軍艦の作り直しに着手したことであった。下瀬火薬により、大砲を鋼鉄で囲んで動かして撃つ「砲塔」という概念が出てきた。それを積むために巨大化した最初の戦艦が「ドレッドノート」という名前の船で、のちに「ドレッドノート級の戦艦[弩級戦艦]」と言われるようになった。日本海海戦は、世界最高の海軍を有するイギリスが全軍艦を作り変えなければならないほどの衝撃を与えたのである。

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参考文献 歴史年表