支那の「生体解剖」

三国干渉の2年後、西洋列強によるあからさまな清国の利権争奪が始まった。

  三国干渉(1895年)

先頭を切ったのはドイツだった。明治30年(1897年)、ドイツ人宣教師が殺されたのを口実にドイツ海軍が膠州湾を占領し、翌年、膠州湾租借権、ならびに山東省の鉄道施設権と鉱山開発権を得た。
これに続いてロシアも艦隊を送って旅順・大連を押さえ、旅順、大連の租借権と東清鉄道の延長も認めさせた。日本が戦争に勝って割譲されたところを「極東永久の平和に障害を与えるものであるから返せ」と圧力をかけたロシアが、その三年後に横取りしたのだから日本人は激昂した。しかし、このときの日本には軍事強国のロシアに対して何もすることはできなかった。ロシア周辺の海は冬になるとすべて凍ってしまうため、不凍港がほしいというのがロシアの悲願だったが、ロシアはここでとうとう手に入れたのだ。ロシアはその後、北清事変に付け込み、満州をロシア領にしてしまう
つづいて、フランスは清国から広州湾を租借した。
三国干渉とまったく関係のないイギリスまでもが香港島の対岸にある九龍半島威海衛を租借した。
また、イギリスは揚子江沿岸、フランスは海南島、広西省、雲南省、わが国も多少口を出して福建省と、それぞれが権益を持つ地域に隣接するところを清国は他の国に渡さないという約束を取り付けた。

後世、これらの出来事を眺めると、遼東半島還付を日本に強いた三ヶ国が清国に恩を着せた揚句、何だかんだと口実をつけて奪い取った感がある。したがって、支那(清国)の悲劇は、「以夷制夷」の術策で遼東半島を取り戻すのにロシア、フランス、ドイツを利用したところから始まったのである。列強を使って遼東半島を日本から取り返したら、それよりもはるかに大きな領土を列強に奪われたというマヌケな結果に終わったわけだ。

ある歴史家はこれを「支那の生体解剖」と呼んだ。

清国が外国を使って日本を抑えようなどと考えず、遼東半島を日本に割譲したままにしておけば、このようなことにならなかった。日本にとって怖いのはロシアだけである。ロシアを抑えるためには清国に近代化してもらいたいし、朝鮮にも近代化してもらいたいというのが日本の願いだった。そのうえに、日本が遼東半島をもっていれば、ロシアはそれほど怖くなくなる。また当時の日本はまだ近代化に力を入れたいという段階であり、戦争を全く望んでいなかった。

ブラウザの「戻る」ボタンで戻ってください
参考文献 歴史年表