北清事変(義和団事変)(1900年)

三国干渉の見返りとして列強広大な領土を奪われた清国では白人排斥の感情が高まった

  三国干渉(1995年)
  支那の生体解剖

1899(明治22)年、宗教的秘密結社である義和団が、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼす)」というスローガンを掲げて、山東省で蜂起した。義和団とは義和拳という武術をマスターすれば鉄砲も刀も怖くないという迷信を持った人々の集団で、暴動は清国全体に広まった(「義和団事変」「拳匪の乱」「ボクサー・レベリオン」ともいう)。
翌1900(明治23)年になると、暴動集団はキリスト教徒を殺害し、教会、鉄道、電線など西洋伝来のものを破壊し、北京にまで至った。当時、清国の実権を握っていた西大后は義和団の味方となり、清国軍を派遣して北京の公使館や天津の租界を攻撃させた。そして清国は北京に公使館を置く列国に宣戦布告を行なった。これにより北京では公使館のある区域が義和団に包囲され、そこにいた8ヶ国の人たちが皆殺しされる危険が迫った
そこで8ヶ国は団結して連合軍を作り、義和団の大軍に合同で立ち向かうこととなった。
日本はたった25人の軍人しかいなかったが、柴五郎中佐が率いて抜群の働きをした。他の国の兵士は怖がってなかなか戦わなかった。日本は各国から地理的に最も近いという理由で本国から応援部隊を出すよう要請されたが、野心があると思われるのを避けるため応じなかった。しかし、再三イギリスなどから要請され、福島安正少将が混成三個大隊を率いて天津に来た。日本軍の活躍で連合軍は天津を占領することができた。
その後、連合軍は日本軍を主力として北京に進軍、8月14日に北京の公使館を包囲していた義和団と清国兵を駆逐し、公使館区域の外交官や居留民を救出することに成功した。その後、連合軍は国ごとに分かれて北京を占領した。

ロシアは義和団の乱が支那から満州にまで及んだときに増派してついには全満州を占領してしまった。この乱につけ込んでロシアは満州をロシア領にしてしまったのだ。しかし、清国はロシアを満州から追い払う努力は一切しなかった(満州からロシアの勢力を追い払ったのはその後の日露戦争に勝利する日本である)。
もし日本が日露戦争で勝利しなかったら、(宣統帝溥儀の家庭教師だったレジナルド・ジョンストンが言うように)遼東半島のみならず、満州全土も、その名前までも、ロシアの一部となっていたことはまったく疑う余地のないことだった。

当時の戦争では軍隊は市民から略奪、強姦するのが当たり前で、北京や上海でも列国による略奪が頻発していた。白人で一番まともなイギリス兵ですら支那人から貴重品をかっぱらっていた。しかし日本軍だけはそういったことにいっさい手を染めなかった。日本の占領地域だけは軍規厳正で、治安維持が特に優れていた。
ロシアの占領地区ではロシア兵が虐殺や放火、強姦をやりまくり、日本の占領地区に逃げ出す支那人が大勢いた。北京とは遠く離れた所でもロシアは大虐殺を行なっていた。

  江東六十四屯虐殺

天津を連合軍が占領したときにも日本以外の兵は略奪、強盗、放火などを行なった。ロシア兵に至ってはろくに戦ってもいないのに暴虐行為を繰り広げていた。そんなわけだから天津の人たちは日章旗を掲げ、日本に感謝を表明するほどだった。

賠償金の支払いでは、最も多額の賠償金を要求したのは日本の四割しか出兵しなかったロシア、次は北京救出にまったく参加しなかったドイツ、その次が日本の50分の1しか兵を出していないフランス、次がイギリス、5番目が日本で請求額はロシアの3分の1にも満たないものだった。一番功績のあった日本がほとんど賠償を請求しなかったわけだ。ちなみに、ロシアは満州を占領する口実を得るために北京の籠城者の全滅を望み、日本本国の救援を要請することを邪魔したのである。ロシアとはどういう国かわかるだろう。

1901年(明治24)9月、義和団事件の最終議定書が11ヶ国で結ばれた(北京議定書)。この議定書により、列強は支那に駐屯軍を置くこととなった。これゆえその後の支那に日本軍が駐留することになるのである。

北清事変における日本軍の規律正しさは列国を感嘆させ、日本に対するイメージを一変させた。また、日本の働きは、世界中の人々、支那人にも好印象を与えた(こうした事実は反日・自虐史観では絶対に書かない)。
特に、イギリスが日本を評価した。イギリスのマスコミは日本をべた褒めし、イギリス公使は「日本は信頼に足る国である」と本国に忠言、日本に同盟を提案してきた。
こうして、北清事変で政府、軍ともに模範を示した日本は、ついにその誉れ高い名をヨーロッパ中に知らしめ、日英同盟を結び、イギリスという強力な同盟国を得た

  日英同盟(1902年)


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参考文献 歴史年表