長い間ロシアにいじめられ続けていた支那では日露戦争後に日本への留学熱が高まり、1905年には留学生は1万2千名にも達した。支那は隋の時代から千年以上も続いた科挙の制度をやめた。 科挙の制度は支那の古典文学を中心とした試験であり、これこそ政権に就いた民族が変わり、政府が変わるといえども、揺るぎなかった支那文明の大黒柱である。それが日露戦争の衝撃でなくなった。これは大変な事件である。 科挙の試験を止めた清国は日本へ留学生を送り、日本の大学の格と留学期間を参考にして「科挙であればどのあたりになるか」という評価をして役人に採用するようになった。日本に学びたい人が増えたこともあるけれども、科挙の代替のようにとらえられ、留学しなければ高級官僚になれないという状況が一時的に生じた。 |
参考文献 | 歴史年表 |