大正元年(1912)に陸軍大臣の上原勇作が、軍拡案が否決されたことに怒り辞職した。そして陸軍が後任の人を推薦しなかったので内閣は総辞職に追い込まれた(上原陸相事件)。 この当時は軍部大臣現役武官制のため、軍部が大臣を推薦しないと内閣を組織できなかったのだ。 このまま行けば軍部の横暴を増長させ、憲政は危機に陥るが、議会内の護憲派が立ち上がった。その後の桂太郎内閣が立憲的とはいえない手続きで組織されたうえ、軍部の顔色を伺った桂首相が、「軍部大臣現役武官制は憲政の運用には支障ない」と答弁したため、護憲派の人々が抗議運動を始めたのだ。 この護憲運動は議会内から全国に広がり、数万の民衆が議会を取り囲むという騒動に発展し、桂内閣は総辞職した(大正政変という)。 その後の首相になった山本権兵衛は、軍部大臣現役武官制を廃止する。ここで陸相だった木越安綱が、軍部の意向に逆らって、山本を支持した。 大正政変は、「非立憲的である」という言論によって内閣を倒すことも可能であることを証明した。そして、つづく山本内閣での首相と陸相の英断が、軍部の身勝手が横行する根元たる制度を廃止した。こうした動きによって、短いが輝かしい大正デモクラシー期が始まった。 |
参考文献 | 歴史年表 |