大正デモクラシー

日本の民主主義は大正時代に着実に発展していた日本の民主主義が大東亜戦争終了後のGHQの統治から始まったというのは反日史観・自虐史観であり捏造である。日本はずっと以前から、誰からも押し付けられることなく自分で学んで民主主義を発展させていた。大正デモクラシー期は民主主義が広がった時期である。

護憲運動(大正政変)」により、「非立憲的である」という言論によって内閣を倒すことも可能であることが証明された。つづく山本内閣での首相と陸相の英断によって軍部大臣現役武官制が廃止され、軍部の身勝手が横行する根元たる制度を廃止した。こうした動きによって、短いが輝かしい大正デモクラシー期が始まった。

大正3年(1914)には第一次世界大戦が始まった。日本では軍需品の輸出が急増し、アジア地域への輸出も急激に伸びた。重工業も発展し、日本は空前の好景気を迎えた。庶民の暮らしも大いに向上した。
第一次世界大戦後には不況が来たのだが、それほど深刻ではなかった。

大日本帝国憲法のもとで議会に基礎を置く政党政治が定着し、普通選挙運動などの社会運動も活発になった。
原内閣の成立で政党政治も定着し、民主主義(デモクラシー)の思潮と国際協調の世論が強まった。

このような安定した情勢下でデモクラシーと文化が大いに発展した。

ワシントン会議に出席した海軍大臣・加藤友三郎のおかげで、日本の大正デモクラシーはさらに進む。会議に出席したアメリカとイギリスの代表はいずれも文官だったが、現役軍人である加藤に劣らず軍事を語る。その姿に、加藤は軍部大臣は現役武官でなければという認識を改める。また、国家予算の多くを軍事費が占めることの異常さを悟り、この軍縮会議の趣旨に心から賛同するようになった。
原が暗殺された後に首相になった加藤は、以前からは想像もつかなかった政策を次々と行なった。軍拡計画は撤回、旧式戦艦を含む10数隻を廃艦にし、陸軍には五個師団分の人員縮小を遂行する。さらに、1918年に始まっていたシベリア出兵に関しても撤兵を決定する。そして、再燃していた軍部大臣の現役武官制問題についても「文官でも支障ない」と明言した。

ただし、この時期には、ロシア革命の影響で、知識人や学生の間にマルクス主義の思想が広がってしまった。
日露戦争の勝利後、日本は自らの手で、独自に民主主義の道を歩み始めていた。大正デモクラシーが共産主義によって断絶させられたことを日本人は記憶しておかねばならない。

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参考文献 歴史年表