内政が原因で倒れた若槻内閣に代わり、昭和2年(1927)4月、田中義一内閣が成立した。外務大臣は田中が兼務したが、実質的な外務大臣は外務次官の森恪(つとむ)だった。 田中儀一内閣の外交は「積極外交」といわれた。 田中外交と幣原外交は、目的とするところは変わらず、その実現と手段と形態のみが異なるだけだった。実際のところ、どちらも支那と満州における権益保護では共通していた。それにもかかわらず田中外交が「積極外交」といわれるのは、幣原外交があまりに無為であったためである。事実、幣原外交は支那の現状を踏まえず、日本人が危険にさらされたり、財産を侵される事態に無関心であるという批判的な声が高かった。 南京事件などへの対応で「幣原には大陸の実情がわからない」という声が強くなっていた時期に内閣が成立したが、そのすぐ翌月の5月には支那の山東半島へ出兵しなければならない事態が生じた。 第一次山東出兵(1927年5月) 田中外交時代になると、現地の人たちを呼んで東方会議という連絡会が開かれた。 東方会議(1927年6月) |
参考文献 | 歴史年表 |