北伐軍(国民革命軍)は強大な軍隊で上海近郊の南京に入った。 北伐 そこで北伐軍に入り込んでいた共産党員は日本・イギリス・アメリカの領事館や学校、企業、外人住宅を襲って、虐殺、暴行、掠奪を行なった。そのうち女子供を含む数百名の一般市民までもが略奪に加わった。女性への暴行、人体の損壊、掠奪はすさまじいとしか言いようがなかった。この事件を映画化したのが、スティーブ・マックィーン主演の「砲艦サンパブロ」である。南京の暴徒化した民衆が各国領事館を襲ったり、企業を襲って、「外国人を皆殺しにせよ」と叫びながら青龍刀を振り回して、外国人の首を切り落とすシーンが描かれている。 毛沢東を指導者とする共産主義者の大義名分は、帝国主義打倒の打破であり、そのためには外国人に何をしても許されるとの号令がかかったのである。もともとギャングかごろつきの集まりが支那兵である。そうした連中に何をしてもよいとのお墨付きを与えるなら、どんなことがおきても不思議ではなかった。 これに対して、イギリスとアメリカは当然憤激した。そして両国は揚子江にあった軍艦から南京城内に砲撃を行った。イギリス租界奪取事件の漢口のように、英米両国は「日本も一緒に行動しよう」と呼びかけた。しかし日本の駆逐艦は揚子江にはいたのだが日本の軍艦だけは反撃には加わらなかった。それは、「支那を刺激してはならない」という日本政府の訓令があったためで、日本の軍艦は、避難しようとする日本居留民を見捨てて揚子江を下流に向けて逃げ帰った。イギリスは居留民を守るために共同出兵を日本にしようと日本に提案したのだが日本はこれも応じなかった。当時の日本政府が幣原外交で不干渉主義だったのと、尼港事件のように日本人全員が虐殺されることを恐れたためである。 尼港事件(1920年) 幣原外交(第一次1924.6〜1927年) 日本が攻撃しないと知ると、支那兵は日本領事館に押しかけ、暴行と掠奪を行なった。このとき、領事夫人は27人に輪姦され、30数名の日本人婦人は少女に至るまで陵辱せられた。その際、日本領事館員も日本軍人も、避難してきた日本人居留民も、まったく抵抗しなかった。海軍陸戦隊は武器も持たずに領事館にいたのだ。のちに全員が揚子江にいた軍艦に収容されたが、日本領事館の警備を担当していた荒木海軍大尉は任務を果たせなかったとして後に自決した。 南京事件の結果、退去令が出され、揚子江流域からは日本人は全員着の身着のまま財産を放り捨てて内地に引き揚げざるをえなかった。 日本外務省は事を荒立てないため、広報に「わが在住婦女にして陵辱を受けたるもの一名もなし」などとまったくの嘘を書いたため、南京居留民は激高した。彼らは居留民大会を上海で開き、支那軍の暴状と外務官憲の無責任を同胞に訴えようとしたが日本外務省はそれを禁止した。これが幣原外交だったのだ。 外国人の死者はさほど多くなかったが、外交施設である領事館を襲ったことは非常に重要である。 後からわかった事実は、南京事件を起こした軍隊の政治主任は共産党員だった。彼は漢口にいるボロジン(ソ連顧問)から、南京に入城して列国との間に事件を起こせ、という指令を受けていた。共産党の意図は、蒋介石の国民革命軍と外国との衝突を引き起こすことにより、蒋介石を失脚させ、国民党右派を排斥し、国民党を共産化しようとするものである。つまり南京事件はコミンテルンと支那共産党の陰謀だったわけだ。 イギリスはこの南京事件がコミンテルンの指揮で組織され行なわれたとしてソ連との国交を断絶した。 蒋介石はここで共産党の陰謀に気づき、共産党勢力の大粛清(上海クーデター)を実行する。 上海クーデター ちなみに、中華人民共和国(支那共産党)の歴史教科書では、南京事件について国民革命軍の襲撃にが一切触れずに、革命を破壊するために南京を占領した北伐軍に向かって外国国軍が砲撃を加え、2000人あまりを死傷させた、などと書き、また、砲撃をしなかった日本も英米と一緒に撃ったことにしている。堂々と捏造した歴史を教えている。 支那にとっての「歴史」 この南京事件の10日後の4月3日には、漢口で日本の租界が襲われ、暴民によるほしいままの掠奪が行なわれた(漢口事件)。 漢口事件(1927年4月) 上海にしろ漢口にしろ、租界は条約によって列国が保有していたものである。そこに暴民や暴兵が押しかけてきて掠奪するというのは明らかに不法である。しかも、そこで工場を経営したり、商業に従事していた者は、財産を根こそぎ失うことになったのである。 南京事件以来、列国の外交団は蒋介石に対し、最後通牒に等しい抗議文によって、謝罪と首謀者の処罰を要求すると共に、直ちに軍事行動に出ようという意見が強くなった。これを知った日本の外相・幣原喜重郎はイギリスとアメリカに以下のようなことを示唆した。 「最後通牒を出した場合、蒋介石は屈辱的外交をしたとして攻撃され、蒋介石政権は潰れる。そうすれば再び無政府状態になる。多数の居留民を有する日本には危険である」 英米などの意見に従っていたら、幣原の言うとおり蒋介石は潰れるか、全土が戦場になったであろう。この時点で蒋介石の国民政府を救ったのは、幣原外交だったのである。 イギリス租界奪取事件、南京事件と続いた国民革命軍の掠奪暴行事件に日本がまったく報復を試みなかったことは、英米両国に疑心を抱かせた。すなわち、「日本は裏で支那とつるんでいるのではないか。同じアジア人同士で組んで、われわれ白人の権益を全部支那から追い出し、日本は一人甘い汁を吸おうとしているに違いない」と考えるようになった。少なくともイギリス外務省はそう見た。そしてイギリスは「アヘン戦争以来の政策転換」と自ら語る支那政策の大転換に踏み切る。 イギリス政府は、BBCで支那に向けて「クリスマス・メッセージ」なるものを放送した。それまで、共同租界の実権を握り、列強の中でも最も強圧的で、強硬派で、利権に執着していると思われたイギリスが「日本の野心」を強く疑い始め、日本以上の「対支那宥和」へと大転換したのだ。狙いは明白だった。このままではイギリスが、コミンテルンと結んだ支那革命運動や、過激化する支那ナショナリズムの標的となってしまう。それはなんとしても避けなければならない。ならば、支那人の矛先をわれわれからそらせばいい。その矛先は、つねに野心をたくましくしている日本に向けられるべきだ。これが「クリスマス・メッセージ」の意味するところだった。 こうして支那の革命運動、あるいは過激なナショナリズムは、このあと日本に矛先が集中するようセットされてしまった。 ところが、日本の外務省はこの「クリスマス・メッセージ」の真意にまったく気づかなかった。「イギリスはやっと対支那宥和に転じ、われわれの立場に近づいてきた」などといって喜んでしまった。 満州事変はその淵源をこの南京事件に見ることができるといえる。 満州事変(1931年) |
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