関内作戦(1932年)

熱河作戦で関東軍は張学良軍を万里の長城以南(関内)へ追いやったのだが、熱河省は満州国領内で、長城の向こう側の河北省は支那(中華民国)の領域だからという理由で万里の長城まで占領はしなかった。熱河作戦は支那と戦争をするためのものではなかったからである。

ところが、国民政府張学良に代えて何応欽を責任者に任命し、5万の中央軍が万里の長城に登って、関東軍を見下ろす形で攻撃してきた。さらに支那側は20個師団近くを集め、全線に渡って攻撃を始めた。また、一部の軍隊は満州国領内の熱河省に入ってきた
ここでようやく関東軍は長城を超えて進撃した。しかし途中で止まり、万里の長城の外へ戻った。天皇陛下が「関東軍の前進中止を命令したらどうか」という質問の形で侍従武官に述べたため、関東軍は撤退したのである。

「日本が退いたから、このへんで手を打とう」という発想が支那にないのは悲劇だった。退いたら必ず出てくる。
結局は万里の長城にいる支那軍を放置することができず、関東軍は再度長城を超えて関内に軍を進め、北京のすぐそばまで迫った。そこでやっと何応欽が停戦の提案を行ない、昭和8年(1933)に塘沽停戦協定が結ばれる。

  塘沽停戦協定(1933年)


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参考文献 歴史年表