塘沽(タンクー)停戦協定(1933年)

関内作戦によって関東軍が万里の長城を越え北京のすぐ近くまで迫ると、何応欽はやっと停戦の提案を行なった。昭和8(1933)年、塘沽(タンクー)において岡村寧次少将と熊斌(ゆうひん)中将との間に協定が結ばれた(塘沽停戦協定)。

この協定によって満州国と接する河北省内に非戦地区が設けられた(非戦地域は、のちに梅津・何応欽協定によって河北全省に広がる)。
また、この協定で満州国と支那の境界線が明快になった

ただし、石原莞爾は以下のように言っている。
「塘沽協定で日支紛争を局地解決したことは一応の成功であったが、さらに外交交渉を進めて蒋介石に排日停止、共同防共、満州国承認、少なくとも黙認までを約させるべきであった。満州事変の終末指導をいい加減にしたことが、将来支那事変にまで発展させた一つの訴因であった」

塘沽協定後、目立った戦闘はなく、事実上、満州事変は終結した。日本と支那の関係は改善される。4年後の昭和12年7月に盧溝橋事件が起きるまで、日本と支那の間には短いながらも戦争のない状態が続く

  盧溝橋事件(1937年)

満州国そのものは既成事実となり、昭和20年に日本が敗戦するまで存続することになる。

反日・自虐史観では満州事変支那事変などを一緒にして「日中十五年戦争」などと呼んでいるが、15年も継続した戦争などなかったのは明白で、真っ赤な嘘である。

この停戦協定により蒋介石の国民党政府は共産党掃討作戦に注力することができるようになった。そして共産党は長征を余儀なくされる。

  共産党掃討作戦(1930年〜)
  長征(1934年)


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参考文献 歴史年表