ロシアの満州における野望とその侵略事実についての記述
このロシアの態度に対して、日本はどのように対処したか
日露戦争後の日本とロシアの清国の関係について
このような満州をめぐる日本とロシアとの歴史的関係の中に、孫文の革命が成功する。1923年には、国民党が結成され、27年には中央政府が南京に樹立されたが、張作霖は満州の独立を宣言し、袁世凱は北京政府を主張した。支那は三つの政府に分かれ、卑俗が跳梁し、群雄が跋扈した。この間に共産主義運動が伸びていった。リットン報告書は以下のように記述している。
このような共産勢力の伸長と、国内治安のびん乱というよりもほとんど無政府状態、法律の秩序をもたない、無法無秩序の状態がつづいた。ことに満州は卑俗の巣窟で、「その鎮圧は長期にわたって閑却され、はなはだしきは兵士が匪賊と内応していた」。そこへ排日運動がものすごい勢いで、りょう原の火のように燃え広がった。さらに次のような事態が生じたことをリットン報告書は伝えている。
経済的ボイコットの利用と、学生に対する排外宣伝の注入は、やがて支那に居住する外国人の生命・財産を脅かすに至り、「この支那の態度は列強を驚愕させた」のである。そのもっとも大きな被害者は日本であった。
日支両国の悪循環は、次第に頂点に達していった。そして、ついに中村大尉事件が起き、万宝山事件が起きて、満州事変へと発展していったのである。 万宝山事件 中村大尉殺害事件 ところが、東京裁判においては、この報告書を全く無視し、このような歴史的社会的な経緯を否定して、満州事変は一部日本の指導者の共同謀議によってなされたものであると決め付けた。まことに児戯に類する、笑うべきでっち上げである。 さらにリットン報告書は、満州事変の経済的背景、心理的背景として、次の点を指摘している。
驚くべきことに、東京裁判はこのような事実を直下に否定し去って、満州事変の勃発を「共同謀議」の四字に集約しようとしたのである。 |
参考文献 | 歴史年表 |