昭和6年(1931)7月2日に起こった。満州の長春郊外にいた朝鮮移住民(当時は韓国併合により日本人だった)と支那人の農民の衝突があり、朝鮮人居住者たちが支那人警官によって弾圧された。 事件は過去数年に満州で発生した紛争に比べて特に重大なものではなかったのだが、誇大な報道がなされたために朝鮮では激しい反支那運動が起こり、それが原因で今度は支那で排日を激化させた。この事件報道が伝わると朝鮮半島の各地で支那人居留民に対して朝鮮人の集団的報復が行なわれ、支那人の店は次々と襲撃された。平壌だけでも100人以上の支那人居留民が虐殺された。 これは突然起きたことではなく、朝鮮人たちは恒常的に満州で迫害を受け続けていた。日本人も満鉄沿線以外では危険極まりなかった。 満州にいる朝鮮人が迫害されたことで、創氏改名の願いが朝鮮人の間から起こった。これは日本の名前を持っていれば迫害されにくくなるからであった。 創氏改名 こうした事件が満州で頻繁に起こっているのに、幣原外交はまったく無能だった。 幣原外交(第二次) 朝鮮人と支那人の殺し合いが満州事変の大きな遠因となったのだ。 |
参考文献 | 歴史年表 |