大使館員の怠慢で「奇襲攻撃」に

昭和16年(1941)12月8日、日本海軍はハワイにある真珠湾基地を攻撃した。
日本政府はこの30分前にアメリカの国務長官であるコーデル・ハルに国交断絶の通告書を渡すことになっていた。ところが実際には真珠湾攻撃から55分も経ってから日本の大使、野村吉三郎(のむら きちさぶろう)来栖三郎(くるす さぶろう)からハルに通告書が渡されてしまったのである。
アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトはアメリカの国民や世界に向けて「日本は奇襲攻撃をした。これほど卑劣で狡猾で悪辣なギャングを見たことがない」といって日本を非難した(20世紀を代表する虐殺者、人種差別主義者のルールベルトにこんなことを言われる筋合いはまったくないのだが)。

開戦前日の午前中、外務省は野村に向けて「これから外交文書を送る。通知する時刻にアメリカに手渡せ」という旨のパイロットメッセージ(予告電報)を送った。しかし、日本大使館のアメリカ駐在外交官の連中は夜になったら、なんと呆れたことに同僚の寺崎英成送別会に行ってしまい、大使館には一人も残っていなかった。翌朝、大使館に出勤すると「断交の通告」という超重大な電報が届いていた。電文をタイプで清書したのだが間に合わないと思うと、大使館員たちはとんでもないことをした。なんとハルに電話して「午後1時の約束をもう1時間延ばしてほしい」とお願いしたのである。こいつらはいったい何を考えていたのだろうか。「午後1時に渡せ」と命令しているのにテメエらで勝手に独断で1時間遅らせたのだ。

日本が真珠湾をスニークアタック(奇襲)したというニュースは、それまで戦争に消極的だったアメリカ世論を一変させた。日本を叩き潰すことが一夜にしてアメリカの正義になってしまったのである。
こいつら大使館員の失態(というよりも悪行)によって、アメリカの無知な人間はいまだに「リメンバー・パールハーバーパールハーバーを忘れるな)」などと叫び続けている。外務省はこの国賊の名誉剥奪する気もない。(ちなみに、東京裁判では日本が真珠湾攻撃を事前に通告する意思があったことは認められているのだが、あまり知られていない)。

この恥ずべき事態に、外務省は天皇に「暗号解読に予想外に手間取り」などという見苦しい言い訳をした。この大失敗をやらかしたワシントン駐在の外交官たちの間では、「あの晩のことは、一生涯、誰も口にしない」という暗黙の了解ができ上がった。そして誰一人として責任を取らなかった。戦後、このときの大使館の幹部、井口貞夫(いぐち さだお)奥村勝蔵(おくむら かつぞう)は戦後、外務次官になり、さらには井口貞夫は駐支那大使、奥村勝蔵は駐スイス大使にまで出世した。また、国連大使になった輩(現在調査中)、勲一等を天皇陛下から授かった輩(現在調査中)までいるというのだからあきれる。送別会をしてもらった寺崎英成(てらさき ひでなり)は真相を誰にも話さなかった。そしてこいつは天皇の御用掛になった

しかし、いまだに日本政府、外務省がこの事実をはっきり説明しないため、このことを知らない人々(日本人も外国人も)がやたらと多い。

この件でお勧めのホームページ:真珠湾の真相−1・外務省の怠慢

日本の売国奴史

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参考文献 歴史年表