日本の売国奴史

売国奴と売国行為
1941年
(昭和16)
12月
8日
大使館員の怠慢で「奇襲攻撃」に
井口貞夫(いぐち さだお)奥村勝蔵(おくむら かつぞう)寺崎英成(てらさき ひでなり)といった輩は送別会をやっていて国交断絶の通告書を渡すのが遅れ、真珠湾攻撃をスニーク・アタック(騙まし討ち)にし、「リメンバー・パールハーバー」というアメリカの口実にされてしまった。
1946年
(昭和21)
東京裁判当時に東大教授だった横田喜三郎は、裁判中にマッカーサーの「極東軍事裁判所条例」を擁護した。横田は「東京裁判は世界が最後の審判を下したもの」とキリスト教の神の裁きのごとき表現をし、日本の自衛論を否定した。「日本の戦争は20年間の侵略」と連合国側の立場で決め付けた。さらにいい加減なパリ不戦条約を持ち出し日本を断罪した。この横田喜三郎は後に最高裁判所長官となり、勲一等旭日大綬章を与えられた。
1982年
(昭和57)
6月26日 教科書誤報事件起こる。これに関して、官房長官の宮沢喜一が談話(宮沢談話)を発表し、誤報を事実として謝罪。
1986年
(昭和61)
「新編日本史」外圧検定事件起こる。中曽根康弘内閣、後藤田正晴、文部省は、支那や朝鮮の内政干渉に屈する。
1990年
(平成2)
3月 大蔵省銀行局長である土田正顕(まさあき)(大蔵大臣は橋本竜太郎)が総量規制の通達出したことにより、土地は暴落、莫大な不良債権が生まれ、1650兆円が消え、景気はすっかり冷え込み、今も日本経済を苦しめている。
1991年
(平成3)
首相の海部俊樹は訪問先のシンガポールで「多くのアジア・太平洋地域の人々に、耐えがたい苦しみと悲しみをもたらした我国の行為を厳しく反省する」などといったたわごと(海部「反省」発言)をのたまった。海部は中曽根内閣の文部大臣として、昭和61年(1986)の「新編日本史」外圧検定事件での売国的役割を演じた責任者である。
11月 宮沢喜一内閣が成立。この前後から朝鮮の戦争被害者と称する人間の訴訟が相次ぐ。
1992年
(平成4)
官房長官の加藤紘一は、「従軍」慰安婦問題に触れ、事実ではなく、証拠もまったくないのに旧日本軍の関与を公式に認め、謝罪してしまった。その直後に、韓国を訪問した首相の宮沢喜一は、韓国国会で公式に謝罪してしまった。
さらにこの年の暮れ、官房長官になった河野洋平は朝鮮の「従軍」慰安婦問題で根拠がまったくないのに強制連行があったと認める発言を行なってしまった。
1993年
(平成5)
8月 首相の細川護煕(もりひろ)は、「大東亜戦争は侵略戦争と発言。後の国会の所信表明でも同様の暴言を繰り返す。
11月 韓国を訪問した首相の細川護煕(もりひろ)は、「わが国の植民地支配によって、朝鮮半島の方々が、母国語教育の機会を奪われたり、生命を日本式に改名させられたり、従軍慰安婦、徴用などで、耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことに加害者として心より反省し陳謝したい」などとありもしない事を羅列してわびてしまった。(参照:創氏改名「従軍」慰安婦
1994年
(平成6)
首相の羽田孜(はたつとむ)は、「日本は侵略した」と発言
1995年
(平成7)
6月 首相の村山富市戦後五十年国会決議を衆議院本会議で採択させた。また、土井たか子を団長とする謝罪使節団を、アジア諸国に派遣。
7月 首相の村山富市アジア女性基金なる代物を設立、韓国、台湾、フィリピンに金をばら撒く。
8月 首相の村山富市戦後50年の首相談話(村山)を発表。
11月 首相の村山富市は「首相の韓国大統領への書簡」を送り、土下座外交を完成させた。「植民地支配の下で、朝鮮半島の人々に耐え難い苦しみと悲しみを与えたことについて、深い反省と心からのお詫びの気持ちを表明する」などと相変わらず史実を歪曲したたわごとをほざいてしまった。
90年代
半ば
マレーシアのマハティール首相が提唱したアジアの経済ブロック化を、アメリカの意向を受けて、橋本龍太郎(通産相)と河野洋平(外相)は潰そうとした。アジアの経済的団結を訴えてきたマハティール氏は東アジア経済協議体(EAEC)の結成を呼びかけたが、アジア経済の強大化を防ぎたいアメリカの反発にあった。圧力をかけてきたアメリカに橋本と河野はおそれをなし、積極関与をためらったばかりか、EAECにオーストラリアを入れようなどと言い出した。マハティール構想は、アジアの白人支配に終止符を打つ目的を持っていた。さらに河野は外相昼食会でオーストラリアの参加を渋るマレーシアを罵倒、ASEAN諸国の外相をあきれさせた。。
1996年
(平成8)
6月 首相の橋本龍太郎は「創氏改名などが、いかに多くの韓国の方の心を傷つけたかは創造に余る。(従軍慰安婦問題に関しては)これほど女性の名誉と尊厳を傷つけた問題はない。心からお詫びと反省の言葉を申し上げたい」と史実に反することをのたまって謝罪。(参照:創氏改名「従軍」慰安婦
8月 終戦記念日前日、首相の橋本龍太郎は元「従軍慰安婦」などという人々宛てに「おわびの手紙」などという馬鹿げた代物の中で、「従軍慰安婦」への軍の関与を明記し、謝罪した。
8月 終戦記念日当日に、首相の橋本龍太郎は「アジア諸国民への加害」なるものに言及、「深い反省と哀悼の意」を表明。
鳩山由紀夫、菅直人らが中心となって誕生した民主党は、「日本は何よりも、アジアの人々に対する植民地支配と侵略戦争に対する明瞭な責任を果たさずに今日を迎えている」などとほざき、元「従軍慰安婦」なる人物に深い反省と謝罪を基本政策にかかげた。
1997年
(平成9)
1月 首相の橋本龍太郎は、大分県別府市で日韓首脳会談が行なわれたとき、韓国大統領の金と握手する際に左手で右手を支えて差し出し、臣下の礼をとる行為を行なう。橋本はこの前年の訪韓時にも袖をまくり上げる動作で臣下の礼を示すなど卑屈な対応を続けてきていた。橋本はあたかも支那と勧告の傀儡政権のごとくであった。竹島だけでなく、尖閣諸島の領有権に対しても顔色をうかがい続けた。
5月 首相の橋本龍太郎は西村信悟氏の魚釣島の上陸視察に対し、上陸するなら土地所有者の許可を取っていけ、などとほざいた。
2000年
(平成12)
大蔵大臣をしていた元首相の宮沢喜一は、G7(先進国七カ国財務省・中央銀行総裁会議)に出席したとき、日本は日銀の金利4%引き下げを提案する意向だったが、アメリカのサマーズ財務長官が宮沢を呼びつけて撤回を要求すると、宮沢はいとも簡単に同意し、従来どおりゼロ金利を継続した。サマーズは会談の後、「宮沢はちょっと脅かせば言うことを聞く」とうそぶいていた。
2001年
(平成13)
8月13日 終戦記念日8月15日の靖国神社参拝を公約に掲げて首相になった小泉純一郎は支那と朝鮮の非難を恐れて二日前倒しし8月13日に参拝。小泉はこの後、支那に謝罪旅行に出かけた。
10月 官房長官の福田康夫は「追悼・平和記念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」などという施設懇談会を設置し、靖国神社に代わる施設の審議を始めた。
11月 首相に就任した後初めて訪韓した小泉純一郎は、「日本の植民地支配により韓国の国民に対して多大な損害と苦痛を与えたことに対し、心から反省とお詫びをする」と記者団に語った。
2002年
(平成14)
2月 アメリカ・ブッシュ大統領の日本の首相(小泉)との靖国神社への参拝を外務省と首相官邸が拒絶。結局、明治神宮に代えられ、小泉純一郎は行かずにブッシュ夫妻だけで参拝した。
4月21日 首相の小泉純一郎は支那と朝鮮の非難を恐れて4月21日に参拝。
6月 総理就任後、アメリカを訪問した小泉純一郎はアメリカ大統領ブッシュに「戦争に負けて日本国民はアメリカの奴隷になるかと考えていた。しかしアメリカが寛大に接し、食料も提供してくれたため、アメリカが日本を旧日本軍から解放してくれたという気持ちが強い」などとのたまった。
首相の小泉純一郎は、橋本の路線を踏襲して、元「従軍」慰安婦という人に対して、「いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣としてあらためて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを申し上げます」との手紙を送った。
2003年
(平成15)
1月14日 首相の小泉純一郎は支那と朝鮮の非難を恐れて1月14日に参拝。
2004年
(平成16)
1月1日 首相の小泉純一郎は支那と朝鮮の非難を恐れて1月1日に参拝。
2005年
(平成17)
4月22日 小泉純一郎「日本は侵略国家」発言
8月2日 小泉政権、衆議院本会議で「戦後六十年」の反省謝罪決議を採択。
8月15日 小泉純一郎「反省と謝罪」声明
10月17日 首相の小泉純一郎は支那と朝鮮の非難を恐れて1月1日に参拝。
時期不明 民主党の元党首の菅直人は「日本は何よりも、アジアの植民地支配と侵略戦争に対する明瞭な責任を果たさずに今日を迎えて」などとほざき、民主党の基本政策に元従軍慰安婦への深い反省と謝罪を掲げている。
時期不明 民主党の元代表の岡田克也は「靖国神社には参拝しない」と明言している。
時期不明 衆議院議長の河野洋平は外遊に出かけたとき、途中、台湾の台北に飛行機が降りた。支那に気兼ねした河野は飛行機の中から一歩も出ずに、長時間、機内で我慢していた。河野は支那の忠実な下僕である。

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