横浜、南京、シンガポール、マニラといった各地でそれぞれ、「東京裁判」に勝るとも劣らないいい加減な「裁判」が開かれて、次々と死刑判決が下った。 6千人弱の日本人が戦犯裁判で裁かれ、BC級では1000人弱が死刑になって殺害された。こうした人たちは捕虜虐待の罪を問われ、片っ端から極刑に処せられた。こういったことがあまり知られていないのは、BC級については東京裁判で扱われなかったからである。巣鴨プリズンでもおよそ70人の戦犯とされた日本人が処刑されている。 花山信勝(はなやましんしょう)教誨師は、「A級戦犯」を見送った後、昭和24年はじめに職を辞し、その後を継いだ教誨師は真言宗の田嶋隆純師という方で、巣鴨の父と呼ばれた。彼は収監者や受刑者から感謝状を贈られるほど、「戦犯者」の除名運動に奔走した方だった。隆純師の後を継いだ方が住職として江戸川の正真寺を運営されていて、そこには分厚い過去帳がある。そこには巣鴨関係だけでなくすべての「戦犯」刑死者が載っており、お祈りがささげられている。 「A級戦犯」 「B・C級戦犯」 |
参考文献 | 歴史年表 |