日本の敗戦後日本にやってきたマッカーサーは「日本は文明諸国に地位を占める権利を認められていない敗北した敵であるから、最高司令官(自分)は日本政府に命令するが、交渉はしない」「日本は国として、政府として無条件降伏したのだから、私が占領軍最高司令官として出す命令には一切服さなければならない」などとほざいた。 アメリカは日本の「有条件降伏」を「無条件降伏」にすり替えようとしたわけだ。 当時の外務省の条約局長であった荻原徹は、「そんなことはない。日本は国際法上、条件付終戦、せいぜい有条件降伏をしたのである。何でもかんでもマッカーサーのいうことを聞かねばならないという、そういう国としての無条件降伏をしたわけではない」と抗議した。するとマッカーサーは烈火のごとく怒って、あの生意気な条約局長を左遷せよと命令し、条約局長は左遷された。 このマッカーサーの「日本は無条件降伏した国なのだから、何でもかんでもわしの言うとおりにしなければならない」という姿勢に対して、日本国民と政治家の多くはそういうものかと信じてしまった。政治家も一般国民も無条件降伏説の前に無力感にうちひしがれて占領権力に抵抗できなかった。それが占領軍の押し付けた憲法(日本国憲法)でも6・3・3制の教育制度でも、アメリカ的なものの考え方でも、戦勝国の歴史観でも、何でも受け入れる素地をつくったのである。 この検閲にがんじがらめにされたほかに、昭和22年に発足した日教組はこれにプラス・マルクス主義のドグマや色調を加えて教科書にした。だから若い世代の間に伝統的な日本的なものの考え方が健全に発達するはずがなかったのである。 |
参考文献 | 歴史年表 |