ダグラス・マッカーサー

GHQ最高司令官となる。大東亜戦争開戦時は米国極東軍司令官。のち、西南太平洋方面連合軍総司令官として対日戦を指揮した。

父親も軍人でフィリピンの初代総督だった。親子二代にわたってフィリピンに縁がある。フィリピンはアメリカが独立させると約束しながら、させなかった国である。マッカーサーは日本をフィリピンと同程度の国と思っていた。ところが、マッカーサーは大東亜戦争当時、フィリピンで日本軍になすすべもなくやられてしまった。そして、バターン半島(参照:バターン死の行進)に約5万人もの軍隊を置き去りにして、妻子と幕僚を連れてコレヒドールから魚雷艇でミンダナオ島に脱出し、そこから飛行機でオーストラリアに逃げた(昭和17年[1942]3月11日)。当時のアメリカの戦略爆撃機を預かっていたにもかかわらず、それは全滅され、なすすべもなく兵を残して逃げたのだから、軍人として大きな恥であった。
しかし、アメリカとしては、白人が有色人種に負けるということはあってはならないことだから、マッカーサーの顔をたてなければならない。それでマッカーサーを反攻のための陸軍の総司令官にした。フィリピンの司令官から格上げされたわけだ。この人事には本当は日本に負けたのではないということを示すための配慮があったと考えられている。
海軍の総司令官(ニミッツ)はサイパンを落とした直後、すぐ日本を攻めるよう提案した。その通り攻められていたら当時の日本は、硫黄島も本土も無防備だった。ところがマッカーサーは強行に主張して、フィリピンを取り戻す戦争をした。戦後、軍事専門家は、あのフィリピン作戦は不要だったと言っている。マッカーサーが日本に対する恨みを晴らすためだけに行った作戦だったのだ。
マッカーサーの恨みは強く、日本がポツダム宣言を受諾してから、まず自分をフィリピンから追い落とした本間雅晴(まさはる)陸軍中将、それから終戦時のフィリピン防衛の司令官だった山下奉行(ともゆき)陸軍大将の二人を、まったく形式的な裁判の後、簡単に死刑にした。これはリンチであった。アメリカ人弁護人もついていたが、こんな裁判をしたら恥になると、わざわざ本国に帰って、裁判をやめさせようとした人もいるほどだ。マッカーサーの復讐はその後も続いた。

  マッカーサー重大証言

マッカーサーの軍隊がやったこと
フィリピンのミンダナオ島のダバオには東南アジア最大の日本人街があり、たくさんの日本人の移民がいた。マッカーサーの軍隊は、そこで日本人の移民の耳を切ったり、目を潰したり、水をどんどん飲ませていっぱいになった腹を蹴飛ばして吐かせるというような残虐極まりない殺し方をした。
日本人もゲリラを射殺するようなことは恐らくあっただろうが、日本人は変な殺し方はしない。日本はそれに対して抗議もしているが、マッカーサーが日本へ来たときには、日本人がそういうやり方でフィリピン人を殺したことになっていた。しかし、その虐殺の仕方はマッカーサーの父親がフィリピンの総督であったときに、ゲリラを虐殺した頃と同じ仕方だったのである。自分たちの先祖の行為を、いつの間にかすり替えて日本のイメージダウンに利用したのだった。

ブラウザの「戻る」ボタンで戻ってください
参考文献 歴史年表