「戦後五十年国会決議」(1994年)

「侵略」発言をした羽田の政権が短命で終わり、自社さきがけによる連立政権が発足、社会主義政党である社会党の村山富一が首相になると、謝罪外交は最高潮に達した。

  羽田「侵略」発言(平成6[1994]年)

村山内閣発足成立翌年の平成7年は戦後50年に当たるが、その6月9日に、日本の戦争責任を認める「戦後五十年国会決議」などという、噴飯ものの決議が衆議院本会議で採択された

自社さ政権の下で国会における謝罪決議が構想され始めたが、反対の声は超党派で強まり、決議案が上程されても否決されるのが明白になった。すると6月9日の金曜日、「本日は本会議なし、各議員は選挙区に帰られたし」との通知が衆議院内にまわされ、反対派の議員らは選挙区に戻った。その隙を狙って、衆議院議長の土井たか子が金曜日の午後8時近くの遅い時間に本会議開会のベルを押した。結果、265人の議員が欠席、議員総数509人の半数以下の230人の賛成で決議案は可決してしまった。
だが、参議院は採択しなかった。つまり、謝罪の「五十年決議」は実質上、無効となった

社会党から、参議院が採決しないことや衆議院での決議の内容が不十分との不満が噴出し、村山は、まだ謝罪が足りない、日本の侵略行為が明確に盛り込めなかったして8月15日には悪名高き「戦後50年の首相談話(村山談話)」を発表する

  「村山談話」(1994年8月15日)

同時に、村山、土井たか子を団長とする謝罪使節団が、支那、朝鮮を初めとするアジア諸国に派遣された。このとき、マレーシアのマハティール首相やフィリピンのラモス大統領に、村山や土井は「50年前の戦争をなぜわびるのだ。イギリスやアメリカは侵略してもわびない」とたしなめられた。

支那のこの謝罪決議に対する反応は最悪だった。支那は「不反省の決議」「過去の侵略をごまかそうとする犯罪」「平和の決議ではなく平和の破壊」「軍国主義復活決定の表明」「不謝罪決議」「支那に対する公然たる挑戦」「皇国史観の証明書」などと罵倒した。
支那の歓心を買うつもりで国会強行採決までした「不戦決議」は、逆に支那の反日・仇日の好材料をつくってしまった。自業自得であろう。

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参考文献 歴史年表