三国干渉(1895年)

日清戦争後、明治18年(1895)に下関条約で、日本は遼東半島を割譲されたが、清国は西洋列強の力を使って日本を追い出そうとした。支那伝統の以夷制夷であるが、これがいかに馬鹿げたことであるかを清国は後に思い知らされることになるが、清のこの愚かな行為によって日本もひどい目に合うことになる

下関条約が締結されてから一週間もたたない4月23日、日本に永久割譲された遼東半島、台湾全島、澎湖諸島のうちで、遼東半島を放棄せよ、とロシア・フランス・ドイツが勧告してきた清国が三国に泣きついて、条約を反故にしようと企んだ結果である。三国にはいかなる報酬を与えてもいいから、隣国の日本だけは抑えたいという気持ちだった。
ここでロシアの表明した理由は「遼東半島を日本が所有することは清国の都を危うくするのみならず、朝鮮の独立を有名無実とするもので、右は極東永久の平和に障害を与えるものである」というものであった。もちろんそんなのはウソっぱちで、本当の理由は「満州を奪いたいロシアにとっては、遼東半島が日本に割譲されるのは困る」であることは明白だった。実際にこの後ロシアは遼東半島を租借する

日本にとってはまったく理不尽な要求で国民は総じて拒否の意思を示した。しかし開国してまだ30年も経たない小国としてはロシア・フランス・ドイツという当時の大国(列強)にどうすることもできない。また、総理大臣の伊藤博文は、日清戦争の終わる前からロシアが戦艦をはじめとして大型巡洋艦数そうをウラジオストックに配備し、これにドイツ東洋艦隊、フランス東洋艦隊が加わって、三国連合艦隊が結成されているという情報を得ていた。つまり三国干渉をおこなったときは、すでに日本と戦争しても十分勝てる準備が完了していたのだ。
日本は、泣く泣く遼東半島を清国に還付することにした。日本の政治家たちは、どうしようもないことだとあきらめたが、国民は政府の弱腰に憤慨した。この国民の怒りを抑えるために、明治天皇はわざわざ「遼東還付の詔勅」を出して、国民の自制を求めた。

この三国干渉で日本の受けたダメージは大きかった。朝鮮問題もそうだが、遼東半島還付を境にして清国が坂道を転がり落ちるように衰退し、東アジアに危機的状況をもたらした。その始まりは、ロシアが清国と密約を結んだことである。

  露清密約(1896年)

この密約で満州を横断してウラジオストックに至る東清鉄道の建設許可は重大だった。ロシアはこの鉄道を軍用として自由に使えるという取り決めもなされていた。このときから実質的にロシアの満洲支配が進められてしまった
三国干渉の2年後、西洋列強によるあからさまな利権争奪が始まる。ある歴史家はこれを「支那の生体解剖」と呼んだ。

  支那の生体解剖

なかでもロシアが着々と南下しつつあることは日本にとってとてつもない脅威だった。

  ロシアの南下

列強に広大な領土を奪われた清国では白人排斥の感情が高まり、義和団の乱へとつながる。

  北清事変(義和団の乱)

なお、ここにアメリカが出てこないのは、この時期、ハワイ併合、米西戦争といった侵略行為で忙しくて出遅れたからである。

  ハワイ併合(1998年)
  米西戦争(1998年)

このためアメリカは支那に足場を築くことができなかったが、日露戦争後に動きを活発化させる。

三国干渉の影響は朝鮮にも及んだ。

  日露戦争前の朝鮮の状況


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参考文献 歴史年表