九ヶ国条約(1922年)

19世紀末のジョン・ヘイの門戸開放宣言は単なるアメリカの宣言(つまりたわごと)だったが、これがワシントン会議で結ばれた「九ヶ国条約」によって明文化されてしまった

  ワシントン会議(1921〜1922年)

これによって日本の支那における特殊権益が否定されることになり、山東省の旧ドイツ権益を放棄させられ、「対華21ヶ条」の「希望条項」を撤回させられた

  山東省ドイツ権益返還条約

「九ヶ国条約」は日本、アメリカ、イギリス、イタリア、オランダ、ポルトガル、支那(中華民国)、ベルギーの九国間で結ばれたもので、支那権益の保護を目的とした条約だった。これは「支那の為のマグナ・カルタ」と呼ばれた。その時まで国際会議の正式メンバーとして活躍することのなかった支那は、大喜びして例のない大勢の代表団を乗り込ませた。

日本にとって問題なのは九ヶ国条約がそれまでの日本とアメリカとの了解事項に矛盾する内容だったことだ。
石井・ランシング協定で、日本とアメリカは、自国の近いところに対しては特別の権益を持つとお互いに決めた。

  石井・ランシング協定(1917年)

日本は満洲・朝鮮、アメリカはフィリピンに、それぞれ特別な利害関係を持ち、それをお互い尊重するというものだったのに、九ヶ国条約では支那に関してどの国も平等となってしまった。そして、昭和に入ると、細かいもめごとが支那大陸で起こるたびに、この九ヶ国条約が引き合いに出され、日本非難の根拠に使われてしまう
アメリカというのは、ひとに約束をさせて、それに違反すると約束違反だと騒ぎたてる。この九ヶ国条約は東京裁判にまで持ち越される。東京裁判において、日本が破ったとされる国際条約のリストが作られたが、その中でもっとも重要なのがパリ不戦条約とこの支那に関する九ヶ国条約だった

この九ヶ国条約は実に大事なもので、その後の日米の争いの基本的な争点をつくりあげたものである。ワシントン会議は日米の政治的決闘とさえいわれている。

これに関しては日本の説明が下手だった。支那で革命(辛亥革命)が起こってからは、満州支那ではないことを主張しなかった。支那は革命ではなく、満州族の王朝に対する被征服民族の支那人の独立運動だったのに、それを世界に説明しなかった。さらに問題を大きくしたのがロシア革命だった。

  ロシア革命(1917年)

日露戦争後、アメリカの動きに対して、日本とロシアは協約を結んで対抗し、支那大陸は安定していた。しかし、ロシア革命が起きたため日露協約が消滅、安定の基盤が失われた。そして昭和になると日本がコミンテルンの標的とされ、支那大陸はきわめて不安定になっていく

この九ヶ国条約には期限がなかった。期限がない条約には、事情変更の原則が当てはまる。国際情勢が変化すれば、この条約に縛られなくなるということである。この条約にはソ連が入っていなかった。そのソ連が五ヵ年計画を重ねて、極東にも大軍を配置するとなれば話は別になる。また、「ボイコットその他の不法行為をせず、各国との条約を守る」という約束を支那は無視した。また条約に反して支那は軍事力の拡大に走った。このようにして条約締結時の事情は激変した。そして満州事変が始まり、支那事変が始まれば、日本がこの条約に縛られているわけにはいかないのは当然だった。いずれにしろ裁こうと思えばいくらでも裁かれうる根拠がある国は、実は連合国のほうなのだ。

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参考文献 歴史年表