宣統帝溥儀(せんとうてい ふぎ

清朝最後の皇帝(第12代皇帝宣統帝)。
1911年の辛亥革命ののち清国が滅亡し、皇帝を退位したが、袁世凱との間に交わされた「清帝退位優待条件」に基づき「大清皇帝」の尊号を名乗り、引き続き多くの宦官を抱えた上で紫禁城で生活することが許された。このため溥儀は北京の紫禁城で暮らし続けていた。
ところが、1924年10月にクーデターで北京に入城してきた馮玉祥は「容共」の左翼だったため、溥儀の生命が危険にさらされることになった。そこで砂塵もうもうたるある日、溥儀は護衛隊の目を盗んで紫禁城から抜け出すと命からがら日本公使館に転がり込んだ。溥儀の家庭教師だったイギリス人、ジョンストン卿が、日本公使間が一番安全だとアドバイスしたことによる。
そのうち、北伐で北京に入場した蒋介石の軍隊が、満州歴代王朝の墓を爆破、凌辱、強奪するという事件が起きた。そこには西太后(溥儀のおば)の遺体もあったが、その遺体に対して死姦を行い、体の中の宝石を強奪した。これを知った溥儀は、つくづく支那人が嫌になり、自分の先祖の発祥の地である満州に帰りたいと願うようになった。
1933年に満州国が建国されると、溥儀は要望され、1934年に満州国の皇帝となった
満州国は溥儀の熱烈なる希望にしたがって建国された国である。その大臣は全部満州人、あるいは旧清朝の高官である。ところが彼らには実際上の行政能力がかけていたから、日本人が手伝わざるをえなかった。大枠からいえば日本は、溥儀が父祖の地・満州に満州国を建てて皇帝となる邪魔だてをする勢力を退けただけのことである。それだけに溥儀は、日本の天皇を尊敬していた。皇帝就任後、昭和10年と16年の2回日本を訪問しているが、そのつど非常に歓迎されて大変に感激した。

戦後の東京裁判に溥儀は戦勝国から引っ張り出された。そこで溥儀はこんな証言をした。
「自分の満州国皇帝への就任は関東軍の圧迫によるもので、皇帝就任後の在位期間中も常に関東軍の監視下にあり、自由意志はまったくなかった」
実は、溥儀は終戦直後の8月19日に奉天飛行場でソ連軍に逮捕されて、ハバロフスク収容所に抑留されていた東京裁判での発言はソ連から強要されたものである。もしソ連の意向に背くような証言をすれば、ソ連に戻ってから処刑されるため溥儀はこのような偽証をした。実際、東京裁判のために来日して出廷する間、溥儀にはソ連人の監視が常についていた。「自分の満州国皇帝への就任は関東軍の圧迫によるもの」などという証言は、レジナルド・ジョンストンの「紫禁城の黄昏」を読めばまったくの偽証であるのは明白である。後年、溥儀自身が東京裁判での証言が嘘であったことを認めている

反日・自虐史観に基づく歴史本では溥儀に触れないものが多い。これは溥儀に言及すると、満州の歴史を語らないわけにはいかないからである。それは左翼あるいはコミンテルン、さらには支那政府から見て都合の悪い話である。第一に、満州が支那でないことがわかってしまう。満州における日本の権益もけっして不当なものではなく、当時の国際環境にあっては至極当然の権利であったことも述べなければならないからである。

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参考文献 歴史年表