スペインがコロンブスに命じて東方への西航路を目指していた頃、ポルトガルは東航路でアジアに到着しようとしていた。 西に向かったスペインにしろ、ジパングやインドを求めていたわけなのだから、地中海を東へ渡ってくるほうが早い。陸路を来るのが常識だが、迂回している。それは地中海はイスラム勢力に完全に制圧されていて通行が不可能だったからである。 1497年、バスコ・ダ・ガマ遠征隊はアフリカ大陸南端の喜望峰を回って、インドの西岸、カリカットに入港した。 カリカットを足がかりにポルトガルはさらに東へ向かい、1511年、マレー半島の南端に達し、マラッカ王国(マレーシアの首都クアラルンプールの少し南)を占領し、モルッカ諸島(太平洋上のセレベス島とニューギニア島の中央に位置し、先の日米戦争の激戦地)を支配下に置いた。 モルッカ諸島こそ胡椒・香辛料の一大生産地で、ヨーロッパ人が最大の犠牲を払ってでも手に入れたい島々だった。 以前は、モルッカ諸島からの香辛料はイスラム商人によって船でペルシャ湾のホルムズ海峡に運ばれ、次に陸路で地中海のカイロ、さらにベネチア商人によってイタリアに運ばれていた。途中、嵐や海賊、追いはぎにあうこともよくあり、当時のベネチアの香料の価格は、インドを出るときの26倍にもなっていた。誰でも直接モルッカ諸島へ買い付けることができればと考えていたのだ。 ポルトガルが喜望峰廻りの航路を発見し、直接モルッカ諸島へ買い付けることによって、リスボンでの胡椒の値段はベネチアの1/10以下になった。 こうしてポルトガルはマラッカ王国を手におさめたことで東南アジアの香辛料によって莫大な利益を獲得し、強国となった。それまで長く地中海を支配していたイスラム商人やベネチア商人の特権を奪って東洋の富を独占できるようになった。 小国ポルトガルにとってバスコ・ダ・ガマの東廻り航路の発見は、国家的に一大壮挙であった。 ポルトガルは東南アジアを拠点に、16世紀中葉には日本と支那に進出する。 白人アメリカ到達(1492年) 白人フィリピン到達(1521年) 白人種子島漂着(1543年) |
参考文献 | 歴史年表 |