15世紀のヨーロッパは東洋にまったく歯が立たなかった。東への道はイスラム勢力が牛耳っており、このままでは東洋に征服されてしまう、という危機感から、ヨーロッパ人は海洋に新天地を求めた。 これは「大航海時代の幕開け」などという美名で呼ばれているが、実態は「白人の世界侵略の幕開け、有色人種の悲劇の出発点」であった。 この引き金となった要因は2つあったといわれる。 ひとつはヨーロッパで14世紀半ばに大流行した黒死病(ペスト)だった。人口の三分の一、約3000万人の命を奪い、ヨーロッパ人を恐怖のどん底に陥れた。この疫病に効くと信じられたのが胡椒(こしょう)をはじめとする香辛料だった。香辛料は肉食中心のヨーロッパ人にとって食肉の保存のための防腐剤と脱臭剤として用いられた。冷凍法のない時代には大変な貴重品だった。胡椒の産地はモルッカ諸島を中心とする東南アジアで、イスラム商人が独占的に扱っていた。ヨーロッパに渡った香辛料は非常に高価だった。ヨーロッパの商人たちは、東南アジアの産地に達する新航路を発見し、直に取引したいと考えた。 もうひとつが、マルコ・ポーロの東方見聞録だった。この中で、マルコ・ポーロはジパング(日本)は富が豊かであり、文明が高いことを書いた。内容はかなり誇張されたものであったが、ヨーロッパ人はジパングに興味を持った。(「東方見聞録」は偽作であるという説もある。ポーロ自身も、偽作の作者も共に支那には行ってないという説もある。) この頃、ヨーロッパでは著しく技術の発展が進んでいた。ルネッサンスにより科学的精神が生まれ、火薬、羅針盤、活版印刷などの技術革新が興った。活版印刷の普及は「東方見聞録」や東方貿易で得た知識を広め、羅針盤の発明は航海を容易にし、火薬は異民族と戦うための強力な武器をもたらした。 1492年、イタリアに生まれたコロンブスはスペイン女王の援助を受け、大西洋を西へ向かった。東洋に行くのに西に向かったのは、当時は天文学の発達とコペルニクスの地動説などによって地球は丸いと信じられるようになっていたからである。コロンブスはユーラシア大陸が地球のすべてと考えていて、西に進んだほうがジパングに早く到達できると考えていたのである。 出発してから2ヶ月ほどでコロンブスはアメリカ大陸に到達した。これを西洋中心史観では「アメリカ発見」「新大陸発見」などという美名で呼ばれている。 「アメリカ」には数万年前からモンゴロイドがアジアから移り、ずっと住んでいていたのだから、それを「発見」などと言うのは大間違いである。地球のほんの片隅に位置するヨーロッパに住む白人が初めてアメリカ大陸に到達したというだけの話である。 当時、ヨーロッパでは、インド、支那、日本など東アジアの地域をインディアスと呼んでいた。コロンブスは到着したところを新大陸ではなく、東アジアの一部だと思ったので、この地域の住民をインディオ(インディアン)、カリブ海の島々を西インド諸島と名づけた。 このコロンブスの旅は、はじめから収奪が目的だった。コロンブスは「ジパングの黄金」に目がくらんだ一旗組の連中の頭目にすぎなかった。スペイン国王との間で、新たな地域を発見し、富と資源をスペインにもたらせば、その十分の一を取得できるという契約を交わしていたのだ。コロンブスが望んだ金銀財宝はなかったが、彼は珍しい動植物とともに、快く迎え入れてくれた原住民を容赦なく奴隷にし、ヨーロッパに連れ帰った。これを皮切りに白人(スペイン人)の中南米での強奪が開始される。 そしてこれ以降、白人は「鉄砲と十字架」を手に、残虐非道な手段で全地球をその支配下に収めることになる。 ちなみに、コロンブスが到達した島は現在のバハマ諸島の1つの島で、そこを「サンサルバドル」と名づけた。コロンブスはそこをインドだと信じてアジア大陸とは別の大陸だとは知らずに死亡している。 コロンブスの「アメリカ到達」は、もし十八、十九世紀がヨーロッパの世紀にならなかったら、大した出来事にもならなかった。ヨーロッパから大西洋を横切って北米大陸へ到達したのはコロンブスが最初ではない。バイキングが十世紀にすでに同じことを果たしていた。 コロンブスのアメリカ大陸発見以来、世界は白人支配の歴史だった。それに終止符を打ったのが明治維新である。 明治維新(1868年) 白人アメリカ到達(1492年) 白人カリカット(インド)到達(1497年) 白人フィリピン到達(1521年) 白人種子島漂着(1543年) |
参考文献 | 歴史年表 |