アヘン戦争(1840〜42)

アヘン戦争前の状況
19世紀前半に日本、支那、朝鮮を除くアジア地域のほとんどは、ヨーロッパ列強植民地となっていた。東南アジアにおいては唯一シャム(タイ)だけはイギリスとフランスの抗争の緩衝地帯とされたため、植民地化を免れていた。

イギリスは支那(清国)から茶を輸入するために、インドでアヘン(麻薬)を作らせて清国に輸出していた。
1840年、清国はアヘンが人々の健康を損なうためイギリスがインドから輸入していたアヘンを廃棄した。それに怒ったイギリスが清国に攻撃を仕掛け、清国との間で戦争となった。アヘン戦争をしたイギリス軍の85%はインド人であり、白人はほとんど有色人種同士を戦わせていた
近代的な武器を持つイギリス軍は楽勝でこの戦争に勝利した。1842年、清国との間に南京条約が結ばれた。

  南京条約

このアヘン戦争以後、支那(清国)はヨーロッパ列強にどんどん植民地化されていく。

日本への影響
アヘン戦争で清国が敗北を喫したという情報はいち早く日本に到達した。この情報が幕府や諸藩の重役、全国の知識人たちに及ぼした衝撃は甚大で、幕末動乱の開始に大きなきっかけを与えた。イギリスの軍艦や武器のすごさに幕末の識者たちは驚き、このままでは日本もやられると考えた。この時期、日本は天保の改革に取り組んでいたが、これにはアヘン戦争の影響もあったのである。

支那への影響
アヘン戦争後、清国内ではアヘンの生産が増大。ついには支那全土で麻薬生産が行なわれるようになり、これが各地の匪賊、軍閥の資金調達元と化していった
清朝に抑圧されていた漢族(支那人)に民族意識が起こったが、日本と違って、恐怖を感じることはなかった。
支那(当時は清国)というのは武士がいない国で、文官優位の国、文官が武士を支配する国だった。実際には武力を用いて物事に当たることも多かったが、文官が優位を占める官僚支配の国だった。そのためイギリスに敗北しても支那では、自分たちの道徳が敗北したのではなくて武力に敗北したにすぎないと考えた。つまり自国の文明に対する自信は揺るぎなく、ぐらぐらしないで済んだ。その後、欧米列強の圧力はさらに強まったので清国は西洋の軍事技術を取り入れざるを得なかったが、政治社会の在り方や文明そのものを見直そうという考え方は出てこなかった。そうこうしているうちにやがて日清戦争で日本に敗れることになる。これではじめて支那の有識者たちは目が覚めた。だから日清戦争は支那にはじめて目を覚まさせてやった、支那人にとってありがたい事件だった。清国はそこではじめて近代国家の建設が大事だということを知って日本に留学生を続々と送り込むようになる。

アメリカ
南北戦争で支那への進出が遅れ、清国の「機会均等・門戸開放」を主張した。


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参考文献 歴史年表