1890年にフロンティア消滅が確認され、太平洋に進出したアメリカは、1898年の米西戦争の勝利でグァム島とフィリピンを獲得し、ハワイを併合し、次の獲物である支那大陸に進出しようとした。 ところが、この時期には支那(当時は清国)は既に他の列強にて分割されており、後の祭りでアメリカが入っていける地域はほとんど残っていなかった。香港と揚子江沿岸のめぼしい地域はイギリスが押さえ、ベトナムから広東まではフランスが押さえていた。また、日露戦争後の三国干渉によって山東半島はドイツが押さえ、遼東半島はロシアの手にあった。支那大陸沿岸の主要な港は西欧列強によって独占されていた。 支那の「生体解剖」 当時のアメリカはイギリス、フランス、ドイツ、ロシアよりも後進国であったため、なすすべがなかった。せいぜい上海のような大都市の租界に入れるだけだった。 このような状態において1899年、アメリカの国務長官・ジョン・ヘイはイギリス、ドイツ、ロシア、日本、イタリア、フランスの6ヶ国に対して「門戸解放宣言」と呼ばれる通牒を発した。この骨子は、支那に租借地や勢力範囲をもつ列国が、その中の条約港や他国の既得権益に対して干渉しないこと、またその勢力範囲において関税や鉄道運賃の面で他国に不利な待遇を与えないこと - を謳ったものである。要するに、支那における「勢力範囲の存続を前提として」その中での通商上の機会均等の原則を提唱したものといっていい。もっと簡単に言うと、「俺にも支那の権益の分け前をよこせ」と宣言したという傲慢なたわごとにすぎないものだった。 翌1900年、北清事変(義和団事変)が発生し、各国連合軍が出兵して清国分割の危機が激化すると、ジョン・ヘイは再び第二次の門戸開放通牒を列国に送った。 第二次門戸開放通牒 門戸開放宣言があったからといって何も変わりやしなかったのだが、日露戦争によってこの情勢が変化する。 ポーツマス条約により、遼東半島の租借権がロシアから日本に移り、満洲鉄道(満鉄)も日本の所有になった。 白人先進国に対しては何もすることができなかったアメリカだが、有色人種の日本ならば何とかなると考え、日本の権益を侵食して支那大陸に進出することにした。日露戦争でロシアを追って満州に権益をもった日本だが、今度は日本と支那の関係に日米関係が絡み合うかたちになった。その先駆が鉄道王・ハリマンの対日交渉だった。 桂・ハリマン仮条約 このたわごとにすぎなかった門戸開放宣言は1921年のワシントン会議でアメリカの策略により明文化されてしまう。 ワシントン会議(1921年) |
参考文献 | 歴史年表 |