日清戦争(1894〜1895年)

朝鮮では甲申政変の後、開国派の金玉均らは日本に亡命したが、朝鮮政府は刺客を日本に送り込んだ。そして、明治17年(1894)、金玉均は甘い言葉に誘われて上海に向かい、そこで朝鮮人のテロリストに殺されてしまった清国は朝鮮王に祝電を送り、金玉均の遺体を軍艦で朝鮮に送り届けた。朝鮮政府は遺体の首と両手両足を切り取り、全朝鮮にさらした。金の父親は処刑され、弟は獄死し、母親は悲しみのあまり自殺した。このような清国や朝鮮の態度に日本の国論は沸騰した

そうしたとき、「李朝打倒・外国排斥」を掲げる新興宗教・東学党を中心に、農民たちが朝鮮各地で反乱を起こした(東学党の乱)。これはもともと農民の小作人騒動みたいなものだった。そこに朝鮮の政争、さらに公使となって朝鮮にいた清国の袁世凱が絡んだことから問題が大きくなった。
朝鮮に対するロシアの影響力拡大を快く思わなかった袁世凱は、軍事力を持ってロシア勢力を抑えようと考えたのだろう。東学党の乱を鎮圧するために清国は軍隊を出動させた。日本と清国とで甲申政変の後に結んだ天津条約の規約どおり清国は日本に出兵を通知したのだが、そこには「属国を保護するため出兵」ということが書かれていた。これは日本が受け入れられるものではなかった。日本は、朝鮮が清国の属国であることを認めるわけにはいかないため、朝鮮に兵を送り戦争となった。
清国は、壬午政変甲申政変と二度にわたって朝鮮の内政問題に軍事介入し、ことごとく日朝の関係を踏みにじってきた。清国との戦争に日本が踏み切ったのは、当然の選択だった

この戦争は、「朝鮮は独立国」と主張する日本と、「朝鮮は清の属国」だと主張する清国の争いだった。つまり日本にとっては「朝鮮独立支援戦争」だった。そのことは両者の宣戦布告文の主張を見比べれば明らかである。

両国の宣戦布告文の主張
日本 清国
「朝鮮はわが国が誘って列国に加わらせた独立の一国であるのに、清国は常に朝鮮を自分の属国といって内政に干渉し続けている」 「朝鮮はわが大清国の藩属たること二百年、毎年朝貢している国である」

これほど決定的な相違があるにもかかわらず、教科書などでこのことを指摘しているものは皆無に等しい。日本が一方的に悪いと思わせたいからである。

日本にしてみればずいぶん我慢した戦争だったが、実際に開戦すると最初の陸戦「成歓の戦い」で清国は簡単に負けてしまった。以後、日本陸軍は人数だけはやたらと多い清国軍を撃破し続けた。海軍も圧勝だった。

日清戦争を日本の世論は「義戦」と評価した。福沢諭吉、クリスチャンで非戦論者の内村鑑三などの知識層も賛同した。世間からすると、それまでの日本国政府は、清国に対してあまりに弱腰だった。東学党の乱の8年前、清国が4隻もの軍艦を長崎に送って日本を威圧したうえ、酒に寄った水兵が日本人に暴行を働くという事件(長崎清国水兵事件)が起きたが、そのときですら日本政府は話し合いで解決しようとしたのだ。

この戦争における特筆すべき点は国際法と捕虜の問題であった。
日本は、国際法を遵守して戦争を行った。支那(清国)は無差別撃沈を命じたり、清国在住の日本人を殺害したり、野蛮なことをやり続けた。その場合には復讐する権利が国際法で認められているが、日本は復讐をしなかった
軍規厳しい日本軍にとって初めての対外戦で経験する支那人の蛮行は衝撃的であった。日清戦争であまりに支那が残虐で野蛮だったため、第一軍司令官の山県有朋は「捕虜になるな」という布告を出した。日本人が捕虜になると、あらゆる残虐な方法で苦しめられたうえに殺されたからである。支那人は日本人の手や足を切り、首を切り、睾丸を抜いたり、男根を切り取り、胸部を割って石を詰めるなどした。このため山県は「敵の生捕りする所となるべからず、むしろ潔く一死を遂げ、以って日本男子の名誉を全うすべし」と言わざるを得なかった。「生きて虜囚の辱めを受けず」とは単に死ぬまで戦えという意味だけではないのである。

  戦陣訓

旅順口事件も捕虜になった日本兵が虐殺された事件である。旅順口では負けた清国の兵隊が民間人の着物を剥ぎ取って着ていたから、死体はいかにも民衆が殺されたように見え、日本軍が虐殺したと騒いだ新聞があった。

現在の支那政府(中華人民共和国)の教科書の記述
1894年7月25日、日本海軍が豊島付近で清国の輸送船を突然襲撃し、商船一艘を沈め、1000人近い清国の兵士が死んだ、と書いている。また、9月17日、清国の北洋艦隊がアメリカの国旗を掲げた艦隊と遭遇し、その艦隊は近づいてくると突然日本国旗に代えて攻撃してきた、と書いている。
日清戦争では、観戦武官など交戦国以外の国の人が戦場に出て見ているから、嘘をついたらすぐにばれるのだが、支那の教科書にはそんなことはお構いなく真っ赤な嘘を載せている

高陞号(こうしょうごう)事件は、1894年(明治27年)7月、日本軍艦浪速(艦長:東郷平八郎)が、清国兵1200人と大砲、弾薬を載せた運送船高陞号を撃沈した戦闘である。浪速が遭遇したとき、高陞号はイギリスの国旗を掲げていた。これは戦時国際法違反である(中立国の船で戦闘国の兵員や武器を運んではいけない)であり、東郷は自分の船についてくるよう高陞号に命じた。しかし、清国の兵隊がイギリス人の船長を脅迫して拒否させたために、東郷は船から去れという危険・退艦信号を発したのち、攻撃して沈めた。イギリス船を沈めたことから、イギリスの対日感情が一時悪化したが、専門家が「ロンドン・タイムズ」に「東郷の措置は戦時国際法に照らして適法」と書いて反日世論は立ち消えとなった。
豊島沖海戦は宣戦布告が出る前に起こった海戦である。1894年(明治27年)7月25日、日本の軍艦吉野、秋津洲、浪速が清国の軍艦2そうとすれ違った。日本の軍艦は礼砲交換の用意を整えるが、清国の軍艦は礼砲ではなく戦闘準備をしていた。これを見た日本側は戦端が既に開かれたと判断し、広い海域に出て対峙した。すると、敵が発砲してきたので応戦し、清国軍艦は敗走した。
黄海海戦は14そうの日本艦隊が18そうの北洋艦隊と戦って、北洋艦隊は5そうが沈められた海戦である。このときに日本艦隊がアメリカ国旗を掲げていた事実はない。そんなことをしたらアメリカから強い抗議があっただろうし、観戦武官全員がそれぞれ本国に報告したはずだ。
呆れるような想像力で日本をおとしめる話をでっち上げ、それを教科書に載せて教えているのが支那政府(中華人民共和国)である。

日清戦争は日本の勝利で終わり、明治28年(1895年)4月、下関条約が結ばれた。

  下関条約(1895年)

かつては「眠れる獅子」と恐れられていた清国が、当時の小国日本に敗れるや「眠れるブタ」と軽視され、列強の支那侵略は一段と激しさを増した。

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参考文献 歴史年表