日露通商条約によって、日露の国境は択捉島とウルップ島の間(つまり北方領土の北側)に置くこと、樺太は日露の共同領有(雑居地)と決められた。 日露通商条約(1855年) 明治2年(1869)、日本政府は徳川時代初期より200年近く日本領としてきたエゾ地、「北蝦夷」を「樺太」と改称した。 明治4年(1871)にロシアは函館領事のビューツォフを代理公使に任命し、以後、日露間で樺太の帰属をめぐる論争が展開された。 そして日本は千島列島(ウルップ島以北)をロシアから譲り受ける代わりとして樺太を放棄してしまった。これは明らかに日本が損な取引である。江戸時代初期から日本領土だった樺太を、入植からわずか20年のロシアにどうして奪われてしまったのか。当時の国力の相違が背景にあるのは事実だが、それ以外に以下の3つの理由があった。
やがて日露戦争後のポーツマス条約によって南樺太は日本の領土になる。 日露戦争 ポーツマス条約 北方領土について |
参考文献 | 歴史年表 |