日露戦争の講和会議がアメリカのポーツマスで行われた。この条約では次のようなことが取り決められた。 日本はロシアの窮状を把握しきっていなかったため、賠償金まで取り付けることはできなかったが、上記の他には、韓国(1897年に朝鮮は国号を大韓帝国と改めている)における権益などを得た、また、満州の土地を日本が清国に返した形になった。 遼東半島(関東州)の租借権、南満洲鉄道の権益(「鉄道付属地」の炭鉱の採掘権などを含む)は「十万の英霊、二十億の国幣(国費)」という莫大な犠牲と引き換えに得たほとんど唯一の戦果であり、以降、日本人は満州という土地に特別な感慨を抱いた。当時の日本人にとって満州はかけがえのないものだったのだ。 ここまでの経緯を見れば日本は何も満州を侵略したわけはないことがわかる。国際条約に則って正当に租借権を得、あるいはその土地の領有権を得てきた。反日・自虐史観で言うような「侵略」などなかったのは明白である。 それどころか、日清戦争の翌年(1896年)、ロシアと清国の間に秘密条約(露清密約)が結ばれていた。本来ならば日露戦争に勝った日本は清国に迫って南満洲全域の割譲を要求することができたのだが、密約の存在を知らなかった日本は、満州全体をロシアから清国に取り返してやって、鉄道の権利と遼東半島(関東州)の権利だけを租借したわけだ。関東州および満鉄の租借は、日本の当然の権利である。満州における日本の「特殊権益」といわれるものはそういう歴史的根拠のあるものだから、当時の国際状況から見ても少しも理不尽なものではなかった。 一方、賠償金を得ることができなかったので、戦争で金を使い果たしていたことを知らない国民の一部は暴動を起こした(日比谷焼き討ち事件)。 千島・樺太交換条約によってロシア領にされていた樺太の一部(南樺太)を日本が得た。これによって南樺太と千島列島全部がわが国の領土となった。しかし、終戦間際の日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連の侵攻により占拠されて現在に至っている。 千島樺太交換条約(明治8[1975]年) 日ソ中立条約破棄(昭和20[1945]年) 北方領土占領 北方領土 満州では合法的な権益を得て、南満州鉄道を経営する権利、沿線地帯に行政権を行使する権利、あるいは居留民を保護するための駐兵権、そういうものが日本に帰属した。 この講和条約が結ばれてない段階から、すでにアメリカの鉄道王・ハリマンは、日本が手に入れると予想される満洲南部の鉄道権益を狙って日本へ向かっていた。そして、ポーツマス条約が成立するとハリマンは日本に満州の鉄道の共同経営を持ちかけた。 桂・ハリマン仮条約 「露国との講和に関する詔勅」(外部リンク) 「日露講和条約批准に関する枢密院会議筆記録」(外部リンク) |
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