西南戦争

(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった、明治政府に反発した不平士族たちによる武力反乱。日本最後の内戦で、明治維新の英雄、西郷隆盛が自刃した、として知られているが、なぜ頭脳明晰で優れたリーダーシップを発揮していた西郷がなぜこうなってしまったか。

岩倉使節団のメンバーは、帰国すると、「農業に打ち込んでも、舗装道路も、鉄道も、立派な大砲や鉄砲もできない」と主張し、富国強兵・殖産興業に邁進、企業を興し、工場を作り始めた。
大久保利通などは、今後海外から外交官を自宅に招くこともあるからと自宅を立派な洋館に改築し、外国人に見くびられないようにした。一刻も早く近代化し、西欧諸国と互角に渡り合える国にしなければならない、という気持ちからだったが、西郷は「政治の腐敗」と考えた。
明治維新を起こしたのは、武士たちなのに、洋行組は「士農工商」の下級である「工」と「商」を重視し、富の蓄積に励んでいると西郷は不満だった。
このような新政府への反発と「武」への思いから、征韓論を唱えることになる。征韓論は近代化を最重要課題とする大久保らに斥けられ、西郷は高官を退く。こうして西南戦争へと進む。
西郷は西南戦争を率先して起こしたわけではなく、反乱の動きをなだめようとした。しかし、周囲に担がれれば受けようというのが西郷の気質だったから、反乱軍を指揮したのである。
岩倉使節団に参加して西洋を見なかった西郷は、日本は早く富国強兵・殖産興業を進めて近代化しなければならないという考えには至らなかった。

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参考文献 歴史年表