シベリア出兵(1918〜1922年)

1917年(大正6)にロシア革命が起きると、ロシア全土に革命伴う混乱が生じたが、シベリアや北満方面も例外ではなかった。

第一次世界大戦中の1918年(大正7)1月1日、イギリスは日本に対して、ウラジオストックにある軍需品が敵国ドイツの手に渡るのを防止するため、日本軍を主力とする連合軍の派兵を提案してきた。日本の出兵にはアメリカが反対したため、日本はイギリスの提案を拒否した。

ところが5月中旬、ロシアに新しい事態が起こった。
開戦当初、チェコ軍はロシア軍の中に入ってドイツと戦っていたのだが、革命でソビエト政権に変わると、革命ロシアは対独戦線から離脱した。そのときチェコ兵は4万人近くいたが、怨みのあるドイツとどうしても戦いたいというので形式上フランス軍の指揮下に入ることになった。しかし、チェコ兵がいたのは東部戦線(ロシア側)であり、これを西部戦線(フランス側)まで送り込まなければならない。そこで、シベリア鉄道でウラジオストックまで輸送し、海路でヨーロッパに送り込むことになった。
ところが、東進中のチェコ軍と故国に向けて帰還中のドイツ・オーストリア捕虜部隊のあいだに戦闘が発生した。続いて、この事件が拡大してチェコ軍とロシア革命軍(共産主義者)との衝突となり、シベリア鉄道全線にわたって戦闘が開始されたのだ。

反共産主義のロシア人は、ロシア共産党の権力を倒すためにチェコ軍を援助した。これによってチェコ軍の蜂起は西シベリアとウラルにおけるソビエト政権を倒してしまった

連合国にとってチェコ軍の蜂起は大歓迎だった。イギリスとフランスは新しい東部戦線の再建計画を進め、日本にシベリア出兵を要請してきた。しかし、アメリカが日本の動きに神経を尖らせていたのを知っていたため、日本は英仏の要請をまたもや拒否した。
そこで連合国はアメリカの大統領・ウィルソンを説いて日米共同の出兵を促した。アメリカもこの出兵要請を受け入れたためようやく日本も派兵を決めた
そして8月上旬、日本、アメリカ、イギリス、フランスは、軍をウラジオストックに派遣した。支那も出兵を申し出て軍を送り、イタリアもそれに続いた。こうして連合国の共同出兵は完了した。

共同出兵をした日本とアメリカだったが、両国のシベリア出兵目的はまったく異なるものだった。

アメリカの出兵目的は日本の北満とシベリアの進出に抵抗することだった。アメリカ軍は日本の出兵意図に猜疑を抱き、ロシアの共産主義者(ボルシャビキ)と戦う日本軍に協力せず、かえってボルシェビキに好意を示す有様だった。

一方、日本はロシア共産主義を危険思想だとはっきりと認識していた
共産主義というものがアジアに迫りくること、これを何とかして防ごうという気持ちが日本には強くあった。したがって、北満から沿海州のあたりを、静かなアジアと赤いロシアとの緩衝地帯にしたい。そして、共産主義が満州、朝鮮そして日本に入ってくるのを防ぎたい。こういう願いを日本は持った。

しかし、アメリカにはその日本の望郷努力に対する理解が欠けていた。だから、日本のシベリア出兵をアメリカは非難し、これを妨害した。アメリカからシベリアは1万キロ離れており、シベリアが赤化されても満州が赤化されても、アメリカにとっては対岸の火事だが、日本にとっては満州が赤化されることは朝鮮が赤化されることであり、それは対岸の火事ではない。

アメリカは、「共産主義は日本軍ほど邪悪な存在ではない」「共産主義は民主主義の一種」などととんでもない勘違いしていたのだ。そして、日本の出兵は「シベリアの門戸開放」に違反するなどと馬鹿なことを考えていたのだ。

アメリカは自ら撤兵することで日本を世界世論の前に孤立させることを企図した。1920年(大正9)1月、アメリカ派遣軍は、チェコ軍救出という目的も達成しないうちに、政府通告なしに突如撤兵を行なった。これは日本の自由主義者と親米勢力に大打撃を与えてしまった。

極東のロシア領が赤化(共産化)することは日本にとっては満州・朝鮮への重大脅威を意味した。しかし、太平洋を隔てたアメリカにとっては対岸の火事でしかなかった。朝鮮に近いウラジオストックに赤色(共産主義)政府が存在することは脅威であり、日本にとっては生死に関わる大問題だった。日本がそれなりの兵力を派遣したのはこのためである。

アメリカ政府の中にも、ランシング国務長官のように極東赤化の危険を知っており、日本の軍派遣に反対すべきではない、と考えていたものもいたにはいた。

1920年初頭にはチェコ軍救出というシベリア出兵目的も達成しつつあり、日本は満洲、朝鮮の防衛以外は守備隊を縮小し、速やかに撤兵する方針を声明したが、ここにとてつもない惨劇・尼港事件が発生した。このため撤兵は大幅に遅れることになる。

  尼港事件(1920年)


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参考文献 歴史年表