第一次欧州大戦(第一次世界大戦)

きっかけはサラエボ事件だが、大戦争となった原因はなかなか難解である。

第一次世界大戦を一口で簡単に言うと、ヨーロッパ白人たちの世界植民地収奪、奪い合いの末の、分け前をめぐる内輪もめの結果だった。べらぼうな収奪をしまくった先発組のイギリス、フランス、ロシア(三国協商軍、連合国)と、まだ収奪し始めたばかりの後発組のドイツ、オーストリア、イタリア(同盟国)などの醜い争いだった。日本も対独参戦して第一次世界大戦を戦ったわけだが、日本の参戦はお飾りに過ぎないものだった。

  対独参戦(1914年)

ヨーロッパ諸国のうち、大西洋に面して海に出やすいイギリス、フランス、オランダは早くから海外進出していたが、内陸にあるドイツ、オーストリア、イタリアはかなり遅れ、そのため産業革命にも出遅れていた。ところが後発のドイツが工業分野で世界をリードするようになり、「世界の工場」と言われて世界をほぼ支配していたイギリスは焦った。ヨーロッパ諸国の産業革命の進展は、最後に残された大陸のアフリカに向かって一斉に植民地争奪戦を激化させた。イギリスとドイツは「3C政策」と「3B政策」で対立した。またドイツの「3B政策」は、日露戦争に敗れたためにアジアの侵略を一時中断してバルカン半島への侵略にシフトしていたロシアとも対立するものだった。
ドイツはオーストリア、イタリアと三国同盟を結んだ。イギリスは、フランスとロシアに接近し、三国協商を結び、ドイツを包囲した。ヨーロッパの他の小国のほとんどは両陣営のどちらかと同盟関係を結び、緊張関係が高まっていった。

このころ、バルカン半島では民族の独立を目指す運動が高まった。利害関係を持つ列強は独立戦争を利用し、勢力を伸ばそうとし、一触即発の緊張した状態が続いていた。ロシアはセルビアなどのスラブ民族を支援し、スラブ民族を支配しているオーストリアと対立していた。
大正3年(1914)6月にオーストリア皇太子が、親ロ的なセルビア人に暗殺された(サラエボ事件)。オーストリアは同盟国のドイツに対セルビア政策への賛同を得た後に、脅しのためにセルビアに最後通牒を出した。セルビアが全面的に受け入れないことを知るとオーストリアは7月28日にセルビアに宣戦布告した。セルビアを支援してたロシアは7月31日には総動員を下令した。
仏露同盟で国土の両端を敵に挟まれていたドイツは、戦争発生時の行動計画として、シュリーフェン・プランが制定されていた。この計画は、敵国いずれかにおいて動員が下令されたならば、直ちにドイツも総動員を進めてベルギーを通過してフランス軍を包囲殲滅し、さらに手を返して動員の遅いと見られるロシア軍に対処するというものだった。
ロシアが総動員されると、翌日の8月1日にドイツはシュリーフェン・プランによりロシアに対して宣戦布告した。さらに2日後にフランスに対しても宣戦を布告し、ベルギー侵攻を開始した。イギリスは8月4日にドイツに対し宣戦布告した。
こうしてヨーロッパの5大国が第一次世界大戦へと突入していった。

西部戦線では戦線が膠着していたが、ロシアで革命が起こり、ロシアはドイツと単独講和する

  ロシア革命(1917年)

これによりドイツは東部戦線の兵を西部戦線に回し大攻勢をかけたが、アメリカが参戦して大量の物資, 兵員がアメリカから連合国に送られていたため決定的な攻撃にはならなかった。

  対独参戦(1914年)

そしてドイツで革命が起こりドイツ皇帝が退位し、1918年11月ドイツが降伏したため終結した。

戦争終結後、講和会議がパリで開かれた。

  パリ講和会議(1919年)

当初数ヶ月で終わると思われていたのだが、延々と4年半も続いて、死者900万人、障害者2000万人にも達してしまった。さらに忘れてはならないことは、この大戦で植民地宗主国は、事故の植民地の原住民を傭兵として狩り出し、第一線で戦わせたのである。その動員数300万人とも言われ、大半が白人のダミーとして犠牲にされた。
この第一次世界大戦で流されたかつてない「大量の血」は、15世紀以来白人が植民地侵略で非白人を大量抹殺した罪の裏返しとも言える。
この惨憺たるヨーロッパ世界の現状を観察して、ドイツの哲学者で歴史学者、オスワルト・シュペングラーは「西洋の没落」を書き残した。

世界の主な国が全部戦争に突入し、ヨーロッパの主要国は富のかぎりを尽くして戦ったため、戦場から遠いアメリカと日本だけが漁夫の利を占め、ものすごく儲かった
日本は栄えに栄えたのだが、アメリカは日本が一流国になるのを危険視した。具体的には日本の移民を迫害し始めた。

  第二次排日土地法(1920年)
  絶対的排日移民法(1924年)

第一次世界大戦がはじまったとき、長くて1年だろうと見るのが常識だった。それまでの戦争はすべて短期間で終わっていたからだ。日露戦争でも2年かかっていないが、普仏(プロシア・フランス)戦争戦争は7ヵ月、その前の普墺(プロシア・オーストリア)戦争は7週間と、ドイツ(プロシア)の行った戦争で長期間のものはない。しかし、参加する国が多く、戦争の規模の大きくなった第一次世界大戦は、それまでとは桁の違う、常識を超えた戦争になった。

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参考文献 歴史年表