その後の世界を狂わせ、日本を戦争に突入せしめる最大要因のひとつといえる大事件がこのロシア革命だった。 日露戦争の敗北以来、ロマノフ王朝の権威はガタ落ちだった。そして第一次世界大戦での戦闘でドイツに負け続けたことから、マルクス主義者であるレーニンの主導の下、おぞましき革命がロシアで起こった。 マルクス主義 唯物史観 ロシアはソビエト連邦(ソ連)となり、権力を握ったロシア共産党は、ロマノフ王朝の一族をすべて処刑し、共産主義に賛同しないと見なした人民700万人近くを、数年間にわたって殺戮した。 ロシア国内で殺しあう分には外国は関係なかったが、革命で誕生したソビエト政府(ソ連)は世界中を共産主義にしようと企み、コミンテルン(第3インターナショナル)を結成する。 コミンテルン(第三インターナショナル) ロシア革命で共産党が数々の暴挙を働いたことがニュースによって伝わると、世界は震撼し、その影響としてヨーロッパで国家社会主義が台頭する。 国家社会主義 ロシア革命直後からほとんどの国ではソビエト政権を危険視し、警戒した。それはソ連の政治体制が、日本や欧米諸国と異なる陰惨かつ暴力的要素を特徴としていたからである。テロこそがソ連の本質だった。日本では、危険な共産主義から国家と国民を守ることが国防政策と対外行動の基本となった。 後に判明することだが、ロシア革命は人間解放のためではなく、人間抑圧の革命でしかなかった。ツァーの君主専制政治のほうがボルシャビキ政権よりもはるかに大きな自由を、政府批判者に対してさえ許していたのである。 ソ連という国の犯罪のすさまじさ、規模の大きさに比するものはない。その野蛮さ、残忍さは猛烈だった。 革命直後の処刑対象者は、ロマノフ王朝の一族、貴族政治家、軍人、官僚、僧侶、地主、資本家など、旧支配層が中心だったが、スターリンが権力を握ると大粛清が始まり、おびただしい数の人々が殺戮されることになる。 コミンテルンが廃止されてもソ連は共産主義を世界中に輸出し続けた。支那に続き、北朝鮮、ベトナム、カンボジア、東欧、アフリカ大陸へと輸出され、ソ連国内と同じことがこれらの国で起こった。その犠牲者は全世界で1億7000万人に及ぶと推計されている。 16〜18世紀における白人キリスト教徒たちが、南北アメリカ大陸の原住民のインディアン、インディオ1億人を神の名において抹殺し、さらにアフリカから数千万人の人間を奴隷として運び出し、その半分以上を不良商品として大西洋に捨てた残虐な大罪も、マルクス主義による虐殺には及びもつかない。 ロシア革命の日本の及ぼした影響 |
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