尼港事件

1920年初頭にはチェコ軍救出というシベリア出兵目的も達成しつつあり、日本は満洲、朝鮮の防衛以外は守備隊を縮小し、速やかに撤兵する方針を声明したが、ここにとてつもない惨劇が起こった。

日本軍が行なったと称される「蛮行」はやたらと大げさに書き立てる日本の歴史学者、歴史教科書、新聞もこの世紀の大虐殺についてはまったく語らず、知らんぷりし、日本人の記憶と歴史から消してしまおうとしている。どうしても日本人を悪者にしたいと考えている連中にとっては、日本人に知られたらひどく困るのだ。

尼港(ロシア語名:ニコライエフスク)は、樺太の対岸、黒竜江がオホーツク海に注ぐ河口に位置する町である。1920年初頭、ここに日本人居留民、陸軍守備隊、海軍通信隊約7百数十名が在住していた。連合軍が撤退すると、ロシア人、支那人、朝鮮人からなる4千人の共産パルチザンが同市を包囲襲撃、守備隊とのあいだに偽装講和を結んで同市を支配した。共産パルチザンは革命裁判と処刑を開始したが、ロシア革命三周年記念の日に日本軍と交戦状態に入り、日本守備隊は大半が戦死、居留民ら140余名が投獄された。
このとき事件を目撃した日本の海軍士官が、苦難の末、ウラジオストックに脱出し、事件の手記をもたらしたが、共産パルチザンの蛮行を次のように伝えている。

大正9年4月20日付 「大阪毎日新聞」 海軍士官の手記

 彼等過激派の行動は偶然の突発にあらずして、徹底的画策の下に実行されたものとす。すなわち左のごとし。
 第一段行動として、露国資産階級の根本的壊滅に着手し、所在資本階級者の家屋を包囲し、資産の全部を公然と略奪したる後、老幼男女問わず家人ことごとくを家屋内に押しこめ、外部より各出口を厳重に閉塞し、これに放火し、容赦なく火中に鏖殺し尽くしたり。
 第二段の行動として、親日的知識階級に属する官公吏と私人とを問わず、容赦なく虐殺、奪掠、強姦など不法の極を尽くし、第三段行動として獰猛なる彼らの毒牙は着々我が同胞日本人に及びたるなり。
 ここにこれが実例を指摘せんとするに当り、惨虐なる暴戻ほとんど言うに忍びざるものあり、敢えてこれを書く所以のもの、すなわち犠牲者の尊き亡霊が全世界上、人道正義のため公言するものなり。深くこれを諒せよ。
 公然万衆の面前において暴徒悪漢群がり、同胞婦人を極端に辱かしめて獣欲を満し、なほ飽く処を知らず指を切り、腕を放ち、足を絶ち、かくて五体をバラバラに斬りきざむなど言外の屈辱を与え、残酷なる弄り殺しをなせり。
 またはなはだしきに至っては馬匹二頭を並べ、同胞男女の嫌ひなく両足を彼此の馬鞍に堅く結び付け、馬に一鞭を与えるや、両馬の逸奔すると同時に悲しむべし、同胞は見る見る五体八つ裂きとなり、至悲至惨の最後を遂ぐるを見て、悪魔は手を挙げ声を放ちて冷笑悪罵を浴びせ、群鬼歓呼してこれに和するに至っては、野獣にもあるまじき凶悪の蛮行にして言語に絶す。世界人類の公敵として天下誰か、これを許すものぞ、いはんや建国以来の民族血族においてをや。
 帝国居留民一同悲憤の涙を絞り、深く決する所あり。死なばもろとも、散らば桜と、一同老幼相携へ相扶け、やうやう身を以て領事館に避難し、その後市街における同胞日本人に属する全財産の掠奪はもちろん、放火、破壊その他暴状至らざるなし。しかりといへども軍人云わず領事館民と云わず飽くまで彼等と衝突を避くる事に注意し、切歯扼腕、堪忍自重す。しかるに彼等過激派はますます増長し、ついに領事館に向かって砲撃を加え、我が領事館は砲火のため火災を起こすに至り、もはや堪忍袋の緒も切れ万事休す。
 これまでなりと自覚するや、居留民男女を問わず一斉に蹶起して、自衛上敵対行動をとるに決し、男子と云う男子は総員武器を把って護衛軍隊と協心戮力、頑強に防戦し、また婦人も危険を厭わず、敵の毒手に斃れんよりは潔く軍人の死出の途づれ申さんと、一同双手をあげて決死賛同し、にはかに活動を開始す。
 しかし、全員いかに努力奮戦するも衆寡敵すべくもあらず、刻一刻味方の減少するのみ、ついには繊弱なる同胞婦人に至るまで、戦死せる犠牲者の小銃、短銃を手にし、弾はかく込めるものぞ、銃はいかに射つものなるぞと教わりつつも戦線に加わり、無念骨髄に徹する敵に対し勇敢なる最後の抵抗を試み、ことごとく壮烈なる戦死を遂ぐ。かくてもはや人尽き、弾丸尽き、力尽き、人力のいかにすべきやうもなくなお生存の健気なる婦人または身働きの出来る戦傷者は、なんすれぞ敵の侮辱を受けるものかと、共に共に猛火の裡に身を躍らし、壮烈なる最期を遂げたり

日本は雪解けを待って救援軍を派遣したが、共産パルチザンは日本軍が到着する前に、日本人をことごとく惨殺、さらに尼港市民1万2000人中、共産主義に同調しない約6000人を虐殺、市外に火を放って町を逃げた。こうして、居留民384名(内女子184名)、軍人351名、計7百数十名の日本人が共産パルチザンによって陵辱暴行されたうえ、虐殺されたのだ。
事件から2週間後、日本の従軍記者が現場を視察し、以下の視察記が掲載された。

大正9年6月13日付 「時事新報」

 南北一里半東西二里半の尼港全市はペチカの煙突のみ焼け残り、一望荒廃、煉瓦造りの家屋は爆破され崩れ、木造家屋は跡方もなく焼失せり。電柱は往来に焼け落ちて、電線は鉄条網のごとく彼等の足に絡み、焼け跡には婦人の服、靴、鍋、子供の寝台など散乱せり。監獄は市の北部にあり。余等は直ちに焼け残れる一棟に入る。まず異臭鼻を突くに、一同思わず顔を背けざるを得ざりき。中は八室に別れ、腐敗せる握り飯の散乱せる壁に生々しき血液の飛び散れる、女の赤き扱帯の釘に懸かれるなど、見るからに凄惨を極む。最も落書の多かりしは二号室にて、「大正九年五月二十四日午後十二時を忘れるな」と記し、傍らに十二時を指せる時計の図を描きあり。また「曙や物思う身にほととぎす」「読む人のありてうれしき花の朝」等数句の俳句を記し、また「昨日は人と思えども、今日は我が身にかかる」「武士道」等の文字、白ペンキ塗りの壁に鉛筆を以て書かれあり。特に悲惨なるは、赤鉛筆にて五月十九日より六月二十三日までの暦日を数字にて表を作り、最初より二十四までは線を引きて消されあるもの、二十五日以下は消されず。これ二十四日夜、百四十名は監獄より曳き出されて、黒滝河畔に連れ行かれ、ことごとく刺し殺して河に投じられたるなり。
 記者一行は同胞の呻吟せしこの獄内に暫く低徊の後、出でて黒竜江河畔に赴く。造船工場の前におよそ二百坪の空地は一面に血潮に染められ、色既に黒し。これ皆我が同胞の血!
 縛めの縄にべっとり付着せる、また鮮血を拭いたる縮みのシャツ等、陸に引き揚げられ、舷におびただしき血潮の飛び散れるなど、眼も当てられぬ惨状なり。同胞が恨みを呑んで毒刃に殪れしこの汀!
 余等は一歩一歩同胞の血潮を踏まざれば進むを得ざるほどなり。
 余等はそれにより津野司令官を訪う。津野少将は涙を浮かべ「我が同胞は一名も残らずことごとく死にました。同情に堪えません。ただその中一人として卑劣な行いもなく、最後まで屑かったということだけは嬉しいです」と。


「明治大正国民史」 白柳秀湖著

七百の同胞は老幼男女を問わず、悪獣の如き共産パルチザンの手にかかり、永く黒竜江上の煩鬼と化した。この時、彼等が無辜のわが居留民に対して加えた陵侮残虐の甚だしき、世界に人道の存する限り、如何なる歴史家も到底これを筆に上すに忍びないであらう

『大正9年4月20日付 「大阪毎日新聞」 海軍士官の手記』『大正9年6月13日付 「時事新報」』『「明治大正国民史」 白柳秀湖著』は【皇軍の戦史】から転載。もともとは「大東亜戦争への道(中村 粲/著)」からの転載です。

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参考文献 歴史年表