1920年初頭にはチェコ軍救出というシベリア出兵目的も達成しつつあり、日本は満洲、朝鮮の防衛以外は守備隊を縮小し、速やかに撤兵する方針を声明したが、ここにとてつもない惨劇が起こった。 日本軍が行なったと称される「蛮行」はやたらと大げさに書き立てる日本の歴史学者、歴史教科書、新聞もこの世紀の大虐殺についてはまったく語らず、知らんぷりし、日本人の記憶と歴史から消してしまおうとしている。どうしても日本人を悪者にしたいと考えている連中にとっては、日本人に知られたらひどく困るのだ。 尼港(ロシア語名:ニコライエフスク)は、樺太の対岸、黒竜江がオホーツク海に注ぐ河口に位置する町である。1920年初頭、ここに日本人居留民、陸軍守備隊、海軍通信隊約7百数十名が在住していた。連合軍が撤退すると、ロシア人、支那人、朝鮮人からなる4千人の共産パルチザンが同市を包囲襲撃、守備隊とのあいだに偽装講和を結んで同市を支配した。共産パルチザンは革命裁判と処刑を開始したが、ロシア革命三周年記念の日に日本軍と交戦状態に入り、日本守備隊は大半が戦死、居留民ら140余名が投獄された。 このとき事件を目撃した日本の海軍士官が、苦難の末、ウラジオストックに脱出し、事件の手記をもたらしたが、共産パルチザンの蛮行を次のように伝えている。
日本は雪解けを待って救援軍を派遣したが、共産パルチザンは日本軍が到着する前に、日本人をことごとく惨殺、さらに尼港市民1万2000人中、共産主義に同調しない約6000人を虐殺、市外に火を放って町を逃げた。こうして、居留民384名(内女子184名)、軍人351名、計7百数十名の日本人が共産パルチザンによって陵辱暴行されたうえ、虐殺されたのだ。 事件から2週間後、日本の従軍記者が現場を視察し、以下の視察記が掲載された。
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参考文献 | 歴史年表 |