武漢三鎮の一つ漢口にはイギリス、日本、フランスの租界がある。 昭和2(1927)年1月5日に、当時、支那革命運動のターゲットとされたイギリスの居留民が虐殺され焼き討ちに遭い、条約によって認められていたイギリス租界が支那軍によって武力接収された。租界で守備に当たっていたイギリス義勇兵と国民政府宣伝隊の衝突をきっかけに暴徒と化した支那の民衆が租界になだれこみ、掠奪の限りを尽くした。国民政府はこれに便乗してイギリス租界を武力奪還してしまったのである。 暴動は日本人居留街にもおよび、日本領事館の警察官が最後まで奮戦して日本人居留民を守るために日本刀で切り合い防ごうとしたが、領事館に避難した居留民を含めて多くが難に遭った。 これに続いて翌日6日に九江のイギリス租界も支那側に接収された。 この二つの事件はイギリスはじめ列国にとっては大きな衝撃だった。 イギリスは2万3000人の軍隊を動員すると共に列国に同調を求めた。清朝のときから支那で騒乱が起こり外国人居留民の安全が脅かされた場合は、列国は出兵するのが、北清事変同様、しきたりとなっていたからだ。 ところが、日本のそのときの外相・幣原喜重郎は断固として出兵を拒否した。 第一次幣原外交 この日本の平和的というより軟弱な態度は、逆に支那人の侮日感情を高めてしまい、幣原外交の継続を不可能とする事件を起こし続けることになる。その第一は南京事件であった。 南京事件(1927年3月) |
参考文献 | 歴史年表 |