大正11(1922)年に締結したワシントン条約でアメリカは日英同盟を廃棄させる工作をして成功していた。アメリカは明らかに日本を仮想敵国視し始めていた。 ワシントン条約が結ばれた後の大正13年(1924)には絶対的排日移民法が成立し、日本の世論が激昂していたときに、このロンドン軍縮会議が開かれた。 ワシントン条約では、巡洋艦以下の補助艦艇は建造数に関しては無制限であったため、各国とも巡洋艦を建造していた。そして日本の建造した巡洋艦が他国のものより性能がよかったため、それを抑えるためにイギリスがこの会議を提唱した。スポーツで日本が強くなると勝手にルールを変えるという今日の白人のやり方とまったく同じだ。 当時の五大国(アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア)が集まって会議が開かれ、軍縮のために補助艦の保有比率が決められた。日本は元首相・若槻礼次郎を全権として会議に派遣、アメリカ、イギリス、日本のあいだで10:10:7という建艦比率が決められた。 補助艦、特に潜水艦に対して制限が加えられるのは当時の海軍にとっては由々しいことだった。当時の日本海軍はアメリカの大艦隊が日本を攻めてくることを仮想していて、ハワイを出たアメリカ艦隊をマーシャル群島やトラック諸島に基地を置く日本潜水艦隊が迎撃し、敵が小笠原群島近くに来るまでに日本艦隊とほぼ同じくらいに減らすというのが日本海軍の基本戦略だったからである。日本は潜水艦を増やせなくなってしまった。 それでも日本はこの会議で大規模な軍縮に同意せざるを得なくなる。明らかにアメリカの日本攻撃を有利にするための決定と考えられたのだが、国際世論や英米との力関係のため日本は締結せざるを得なかった。 ワシントン会議でも主力艦の保有比率はアメリカ、イギリス、日本のあいだで5:5:3とされていたものだから、再度の軍縮に海軍サイドや右翼陣営が強い不満をいだいて政府を激しく糾弾した。「二度もつづけて日本の建艦比率が抑えられたのではわが国の防衛に支障をきたす。米英との軍事力に差が開くばかりではないか。この条約締結は納得できない」という主張だった。 そのため政府と枢密院のあいだの議論もなかなか決着せず、条約が枢密院を通ったのはようやく3ヵ月後だった。 それでも加藤寛治・海軍軍令部長(国防・用兵・作戦担当のトップ)や末次信正・軍令部次長の怒りは収まらなかった。そこで彼らは「軍令部の承知しない軍縮条約は無効である」と主張し、統帥権干犯問題という重大事件が引き起こされたのだ。世論も軍部寄りだった。 統帥権干犯問題 |
参考文献 | 歴史年表 |