土肥原・秦徳純協定(1935年)

中央軍第29軍の軍長である宋哲元は、チャハル省に駐屯していたが、塘沽停戦協定の後、次第に反満抗日的態度に出て、相次いで日本側との間に問題を起こした。第一次張北事件、熱西事件、第二次張北事件、本柵子事件などである。

宋軍の度重なる挑発行為を重視した関東軍は、宋哲元軍の黄河以南撤退を希望したが、陸軍中央は関東軍の強硬姿勢に同意せず、慎重だった。
結局、日本と支那の双方が歩み寄り、チャハル省内の排日機関の撤去、宋哲元軍のチャハル省からの撤退などで合意した(土肥原・秦徳純[どいはら・しんとくじゅん]協定)。

この協定に基づき、宋哲元軍はチャハル省から北平(北京)方面に移駐した
実は、この第29軍にはすでに中共党員など多くの抗日分子が潜入していて、この2年後に盧溝橋事件を引き起こすに至る。

  盧溝橋事件(1937年)

支那側の塘沽停戦協定違反から梅津・何応欽協定が、また同じく支那側の対日武力挑発から土肥原・秦徳純協定ができたのであり、両協定の原因を作ったのが支那側であることは明らかである。

やがて華北に親日政権(冀東・冀察政権)が成立することになるが、それはこの両協定の結果に過ぎない。

  冀東・冀察政権


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参考文献 歴史年表