梅津・何応欽協定(1935年)

親日社長暗殺事件を受け、日本は何応欽・軍事委員会北平分会委員長に対満陰謀の実行、対日テロなどは塘沽停戦協定違反だと警告し、蒋介石の二重政策の放棄などを要求した。
その後、天津軍(支那派遣軍)に対する支那軍の挑発も発生したが、陸軍中央は現地軍に対して兵力使用を強く戒め続けた。そうしているうちに、国民政府は6月10日に
  • 国民党部の河北省撤退
  • 国民党中央軍の河北省撤退
  • 全国に排日禁止を発令
を回答してきた。また、同日、法令を公布し、排日行為を禁止し、違反者は厳罰に処する旨を命令した。
7月9日、「日本側の要望事項はすべて承認し、自主的に実行する」という何応欽の名による梅津・支那駐屯軍司令官宛の通知書が、支那側より天津軍に提出された。
これがいわゆる「梅津・何応欽(うめづ・かおうきん)協定」で、これによって「親日社長暗殺事件」は落着し、支那側排日機関と中央軍は河北省から撤退することになった。

この協定によって、塘沽停戦協定で設けられた非戦地区が河北全省に広げられた

土肥原・秦徳純協定同様、これらはすべて日本から始めたものではない摩擦だった。日本がおとなしくしているとき、なならず何かを仕掛けてくる。それに対して日本が腰を据えて対応すると、協定ができる。こんな感じの出来事が繰り返された。

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参考文献 歴史年表