張鼓峰(ちょうほこう)事件

極東ソ連軍の増強と共に、ソ連軍による満ソ国境侵犯が増加し、侵犯のやり方も挑発的になってきた。国境紛争は満州国建国以来昭和9(1934)年までの3年間に150件だったが、昭和10(1935)年には1年間のみで176件に及び、事件の性質も悪化した。
満州国及び関東軍は、ソ連に国境を確定することを提案したがソ連は応じなかった。このため、国境紛争は激化し、またソ連軍による不法射撃、兵員の越境、飛行機による領空侵犯も激増した(ロシアは今でもやっている)。
元来、満露国境についてはネルチンスク条約以来いくつもの協定があったが、国境線は曖昧になっていた。ソ連は国境線不明確を国境侵犯のために逆用していたのだ。

張鼓峰は朝鮮と満州を隔てる豆満江河口から20数キロ上流で、ソ連領からも近い標高150メートルほどの高地である。そこは明らかな満州国領であった。
昭和13(1938)年7月9日に10数名のソ連兵が張鼓峰の頂上に現れ、その西側斜面に陣地を構築し始めた。ソ連兵はすぐに約40名まで増えた。
日本はソ連兵の撤退を要求したが、ソ連側は聞き入れなかった。
現地は朝鮮に隣接していたため防衛は朝鮮軍(日本軍)が任務に当たっていた。朝鮮軍も陸軍中央も、外交交渉による解決を第一としていた。
7月29日になるとソ連軍約10名が張鼓峰の北にある沙草峰にも進出して陣地構築を始めた。沙草峰はソ連が主張する国境線よりもさらに1000メートルも満州国に入ったこれも明らかな満州国領である。
この不法行為に対して朝鮮軍の第19師団長は、自己の責任で実力を行使、ソ連兵を撃退させ、張鼓峰と沙草峰の両峰を占領確保した。
侵略を妨げられたソ連軍は8月1日より狂気じみた奪回作戦を展開した。両峰を防衛する朝鮮軍に対し、ソ連は大量の戦車と飛行機を投入して大規模な爆撃を行なってきた。朝鮮軍は専守防衛に徹し、一台の戦車、一機の飛行機も使用していない。
ソ連側は外交交渉を引き延ばして紛争の長期化を図り、その間、爆弾投下と長距離射程の砲撃により日本の戦力は消耗し続けた。日本軍は不拡大方針であり、また越境が許されなかったため、敵の攻撃力に対して壊滅的打撃を加えられず、大被害を蒙るだけだった。
8月4日より日本はソ連に対して停戦交渉の申し入れをしていたが、8月10日についに停戦協定が締結されたが、ソ連軍は11日も猛烈な攻撃を続行した。しかし、第19師団は頑張り抜き、張鼓峰頂上から沙草峰東側に及ぶ線は朝鮮軍が確保したまま停戦を迎えた。11日、撤収に関する命令で第19師団は13日、豆満江右岸に撤退を完了した。
ところがソ連軍は日本軍撤退後、満州国内に20キロにわたる鉄条網を張り、強固な野戦陣地を構築してしまった。さらに翌年、重要地点をトーチカ陣地で強化、国境制定交渉を待たずに、軍事力によって事実上の国境線を勝手に作り上げてしまった。
停戦協定を信用した日本軍の善意をソ連側は裏切ったのだ。

相次ぐ増強で圧倒的優位を得るに至った極東ソ連軍の兵力を背景に朝鮮軍あるいは関東軍の実力を打診してみるために行なったソ連の明らかな国境侵犯がこの事件だが、東京裁判ではソ連は図々しくも日本の国境侵犯を主張し、その主張が受け入れられた

この事件をネットで調べてみると、東京裁判史観、反日史観、自虐史観に洗脳された者が書いた説明ばかりである。

ソ連は翌年、再び関東軍の実力を試そうとしてノモンハン事件を引き起こす。

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参考文献 歴史年表