ノモンハン事件(1939年)

昭和14(1939)年の夏、ソ連が関東軍の実力を試そうとして挑発的越境行為を張鼓峰事件に続いて繰り返した。張鼓峰事件が日本の朝鮮軍に対する威力偵察だったように、ノモンハン事件は関東軍に対する威力偵察だった。その後に満州へ侵略するための試行でもあった。

ソ連にそそのかされ、ソ連軍の援護を受けた外蒙(外モンゴル)軍が、5月11日満蒙国境ホロンバイル草原を流れるハルハ河を渡って満州国領土に侵入した。
この地も満州東部と同じく国境線の不明確な地域だった。日本はソ連に何度も国境の画定を提案していたが、ソ連は応じなかった。国境線が不明確なのを紛争の口実にする、ソ連のお得意の手口である。
張鼓峰事件の専守防衛が結局悲惨な結果を招いたという反省から日本は国境外への一時的行動を是認して戦われた。

ここで日本は一個師団を失ったが、ソ連が世界に誇る機械化部隊に壊滅的被害を与えた。当時、日本軍は一方的に惨敗したといわれたが、実際には被害数は圧倒的にソ連のほうが多かった。最近のソ連側を含めた研究によれば、ノモンハン事件での日本側損害が死傷者に行方不明者を合わせて1万7000余名であるのに対し、ソ連側は死傷のみで約2万だった。日本軍の火力・機械力の不足を考えれば戦闘自体は必ずしも日本軍の敗北だったとはいえないわけだ。
ところが、日本にとって一個師団を失ったショックは大きく、戦況を見極める目を曇らせ、日本はソ連に大敗したと思い込んでしまった。これにより対ソ開戦論は後退した。
一方、ソ連軍もそれ以上の損害を受け、停戦を望んだ。

9月15日にノモンハン事件の停戦協定が成立。そのたった2日後、ソ連はポーランドへの侵攻を開始した(第二次世界大戦)。

張鼓峰事件、ノモンハン事件から日本軍首脳はいかなる教訓を得たか。
ノモンハン事件後、陸軍中央は日ソ両軍の軍備や対ソ戦法を再検討したが、両事件での苦い経験にもかかわらず現代戦における火力・機械力など物的戦力の持つ決定的重要性を認識することなく、依然として白兵主義など精神的戦力の優越性に対する過信から脱却できなかった。これが大東亜戦争に負ける一因となる。

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参考文献 歴史年表